たった1人の遅れた卒業 | 3年前のしこうの楽しみ

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今週の始めのことです。
やっとのことと言うのでしょうか。
大学院の修了証を受け取ってきました。

通常であれば卒業式の時にもらうものです。
しかし自分は海外にいたため欠席でした。
そのためあとから取りに行くことになっていました。

そんなわけで久々にキャンパスを訪れました。
到着するとまだ授業もない時間帯で閑散としていました。
その影響だったのでしょうか。

どことなく場違いな印象を受けました。
あまり縁のあった場所と感じられなかったのです。
少なくとも役所で何かの手続きをするよりも無関係な雰囲気でした。

そこまで積極的に関わっていなかったからでしょうか。
それとも帰属意識のなさからでしょうか。
どうであれなぜここにやってきたのかという疑問が湧いてきました。

とりあえずこの日の目的のために事務の人に声をかけました。
事前に到着時間を伝えていたにも関わらず話は通っていなかったようでした。
なので事情を説明すると棚から探し出して書類一式を渡してくれました。

感慨もなくそれをあっさり受け取ってその場を去りました。
これは今までにないとても不思議な感覚でした。
同時になんだかこの2年間が意味のなかったことのように思えました。

客観的には刺激になったこともあったのになぜなのでしょうか。
自己不一致な部分が浮き彫りになったのでした。
ということで帰り道になんとなく掘り下げてみることにしました。

ここでキャッチできたのは本質的には何も得ていないという自己評価でした。
新たな情報に触れて思考レベルでは喜んでいたのに心の深い部分は冷淡だったのです。
つまりその領域には届くものがなかったということです。

それを求めていたわけでもないのにこんな気分になっていました。
そんなわけでその冷ややかさを認識し続けてみました。
どうやらこの原因は学びに意味があるという観念に抑圧された本音のようでした。

もちろん本当に価値がなかったわけではありません。
ただ投資対効果の観点からは望ましいものでもなかったようです。
とはいえ十分な意味を見出せないままこれだけの期間過ごしたのも人生で初めてです。

逆説的ですがこれに気づくとそれ自体に受け取りがある気がしてきたのでした。
確かにズレが生み出す弊害をここからであれば実感をもって推測できそうです。
この感覚は共感力を高めて人への理解度を次のレベルへと押し上げるのでしょうか。

楽しみに観察することにします。

谷 孝祐
2017.10.12 21:42