もし全てを失ったとしたらということを見つめてみることにしました。
そしてこれに意識を向けるとあることに気づきました。
それは大きな災害にあった時の自分の境遇です。
なぜだか必ず死ぬ側のイメージなのです。
なので残されて生き延びる選択肢がなかったようです。
当然そうなったら自分がどう感じるかも簡単に推測できません。
とはいえそれでは実感を持って向き合うことにはならないでしょう。
そんなわけでひとまず集中して感覚を味わってみることにしました。
静かに落ち着いて仮定を現実に重ねてみたわけです。
呼び水としてはリアルにその立場で生きている人の心境を推し量りました。
今回のフィールドワークでお会いしたその体験をしている人に自分を同調させてみたのです。
何らかの抵抗があるのでしょうか。
やってみてもなかなかうまくいきません。
すぐに気がそれてしまう様子です。
それでも何度かチャレンジしているうちに風穴があいたのでしょう。
意外な言葉が浮かんできました。
どうやら心の深い部分では死ぬ方がマシと記録されているようです。
これが出てくると中学生の頃のことが連鎖的に思い出されました。
当時の戦争学習において殺す側になるくらいなら殺される方が良いと感じていたのです。
具体的には南京事件の内容でした。
今では捏造説もあるもののその頃の自分にとってはインパクトのあるものでした。
一列に並べられて端から撃ち殺されるというシーンでした。
この状況でもうまく撃たれる前に倒れて生きのびた人もいたとのことです。
しかし自分はそこまでして生きることに価値が見いだせない心境でした。
もちろんどちらにもならないことが望ましいのは大前提での話です。
久々に内面のフラットでない部分が発見された気分になりました。
少なくとも被害の状況を直視したくない心持ちだったのでしょう。
惨状を目の当たりにするくらいなら消えた方が良いと思ったわけです。
といってもそこまで深刻ではなかったのでしょうか。
固定観念レベルのものだったのかもしれません。
ここまで思考するとどちらでも受け入れられる気がしてきました。
結局のところできることをできる範囲でするだけなのだろうと実感しました。
何となくこの変化はより物事を正確に認識させてくれそうです。
谷 孝祐
2017.2.22 18:22