今生の印象的な体験61 | 3年前のしこうの楽しみ

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それは中学生のいつ頃のことだったでしょうか。
記憶にある映像からだと2年生だったのではないかと思います。
ふと疑問に思ったことがありました。

なぜだかその時の場所も一緒にセットで残っているのです。
ただ目の前で起きた何かと関係があったわけでもありません。
それこそ普通に廊下を歩いている時でした。

何が刺激になっていたのかすらわかりません。
潜在的に感じていた不可解なことがポッと表面化したような印象です。
急に問いが立ったという感じなわけです。

そしてこのことが今の自分に影響を与えていることは確かです。
これがなければヒーリングとも関わっていなかったことでしょう。
もしくは感情について十分な観察もできなかったでしょう。

これなしで人という存在をより深く理解しようというところにはいかなかったと考えられます。
もちろん当時はその重要性は認識していませんでした。
表層の意識では半ば薄らいでいる時期もありました。

とはいえずっとどこかにあって答えを追い求めていたのかもしれません。
思い返せばここまで解決しない問題も自分にとってはこれだけでした。
おそらく12年くらい持ち越していたのだと思います。

自分の実生活には直接関係ないため主観的には重要視していなかったというのもあるでしょう。
とはいえこのように回想すると潜在意識には太い脈として存在し続けていた気がします。
結果的に人間観察の習慣を身につけさせたことでしょう。

客観的にとらえるとほぼ無意識的にこの答えを求めていたことがうかがえます。
それが今回のこの回想でわかりました。
さてその疑問が何かというと選択についてのことです。

例えば三者択一だとしましょう。
一つは本人にとってベストなもの、もう一つは無難などっちでもないもの、そして本来であれば望ましくない自分を苦しめるもの、があるとします。
ここでいうベストとは望んだ人生を生きられるとか本当に満足できるとかそこまで大きな話でないとしても自己承認できるベクトルです。

まわりを見渡してもこのベストを選択する人がいなかったのです。
むしろあえて自虐的な選択をし続ける人も見受けられました。
たいていは無難な選択をしつつ時折望ましくないものを選んでしまうという様子でした。

なぜそんなことになっているのか全く不可解だったわけです。
なので当座は好きでそうしていると解釈したのでしょう。
そうすることで同調しないように自分を守ったのかもしれません。

今さらながらこのように意識を合わせるととても自分の根幹に関わる重要な時期だった気がします。
しっかり掘り起こして受け取り直していきたいと思います。

谷 孝祐
2016.9.9 8:24