今生の印象的な体験44 | 3年前のしこうの楽しみ

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昨日、秋田のおばあちゃんが他界しました。
とはいえ大往生と言えそうなもので悪い話というわけでもありません。
そんなこともあり、この連載に幼少期の秋田での回想がほとんどなかったことを思い出しました。

と同時にその思い出が自然と湧き出てきたのでした。
きっと人間の記憶とはそういったものなのでしょう。
埋もれていたものも何かのきっかけで連鎖的に顕在化する気がします。

ちなみに、まだ小さかった頃は毎年夏になると秋田を訪れていました。
おそらく2週間くらい滞在したこともあったのではないかと思います。
それだけでなく、もちろん冬に行ったこともありました。

ということで定期的に行っていたわけですが、いつも楽しみにしていた感じがします。
それは非日常に対する憧れだったのかもしれませんが、それだけでもないでしょう。
なぜなら一番印象に残っているのはその土地での何気ない日常なのです。

もちろん川で遊んだとかスケートに連れて行ってもらったという具体的な体験も映像として思い出すことができます。
ただ、それよりも空気感だとか雰囲気とかといったものの方がより深く残っている感じがあります。
今でも、それを追体験しようとすればすぐにできるくらいの鮮明さがあるのです。

そして今さらながらこれが好きだったのだと認識します。
その場所に身を置く喜びがあった気がするのです。
そして、この感覚になれることが自分にとって意味のあることだったのかもしれません。

あえて表現するなら横浜での日常よりも自然体ですっきりした感じとともに主体性が強まる時間だったように感じます。
これが土地の持つ力の影響だったのでしょうか。
そんなことを考えているとふと違った視点が生まれてきました。

ここにはDNA的な共鳴が含まれていたのではないかという推測です。
その感覚にはある種の自己同一感があり、その原因が遺伝子にある気がしたわけです。
このように考えるとなぜだか納得感が出てきたのでした。

好きという主観の裏側が的確に説明できた感覚があったのです。
と同時にこれが帰巣本能を生み出すものだとも感じました。
そこにいると自分のある部分の性質や安心感が強まるわけで、それを求めるわけです。

このようにとらえてみると、秋田での滞在は自分にとって重要な意味があったのだと思います。
そんなわけで、せっかくの機会なのでこれをもう少し深めて、受け取り損なっていたものを拾い集めておこうと思います。

谷 孝祐
2016.5.12 11:11