英語力の否定的自己評価 | 3年前のしこうの楽しみ

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今回の旅を終え帰国の途につき、日本に帰ってきました。
最後の滞在地はミャンマーとタイの国境でした。
立地はタイだけれど見える景色はほぼ全てミャンマーという場所でした。

といってもほぼ自然だけなので、物理的な違いはほとんどありません。
川が国境線なのですが、そんなに大きなものでもありません。
幅は20mくらいで深さもそこまでないとのことでした。

それでも、なんとなしに雰囲気の違いが感じ取れるのは面白くもありました。
夕暮れ時にそんな風景とともに食前酒を楽しむことができるガゼボに行きました。
そこは15室しかないホテルのバーで、この時間帯だけサービスをしています。

そんなわけか、他のお客さんも集まって来ました。
そして、自分の目の前の席にはアメリカ人の家族が座りました。
お決まりというか、飲みながら雑談をすることになりました。

旅行が好きなようで、それなりに知っているホテルも共通していたので話が弾みました。
日本の旅先にも興味があり、いくつかお勧めを教えたりもしました。
さらに、レイキのティーチャーまでいったらしく、こちらの仕事にも興味を持ったようでした。

ただ、さすがに効果的な説明はあまりできず、ちゃんとは伝えられませんでした。
それでも、英語が上手だと褒めてもらえました。
どこで勉強したのかとも尋ねられました。

今までも何度かこのように評価されたことはありましたが、ふと社交辞令のようにしか受け取っていない自分がいたことに気づきました。
英語は旅行する程度しかできないという自己認識が、英語があまりできないという感覚と連動しているようでした。
だから褒められても素直に受け入れられなかったのでしょう。

旅する中で何回もこういった体験が重なり、今回やっと臨界点に達したのかもしれません。
同じ今の力量でも視点を変えれば、旅行して話題が合えば雑談を楽しむくらいは話せると評価することもできるわけです。
この件に関して、完全に否定的な見地から自己評価していたことが明らかになりました。

無意識的には、日本語と同じくらいに自由に話せていないことが、英語を話せないという実感になってしまっているようです。
また、コミュニケーションは取れるけど言葉としての正確性に乏しいということも、これを助長させているようです。
そんなわけで、もう少し客観的にとらえてみようと視点を変えてみました。

すると、自分が日本語を話す外国人にどこで勉強したかを尋ねる時くらいに、自分も英語が話せているような気がしました。
てにおは、はおかしいけど意味は通じて意思疎通はできるというイメージです。
ところが、ここまできてもできていない感覚が大きく変化するまではいきませんでした。

どうやら、学生時代に感じた苦手意識が根っこにあるようでした。
ここをひっくり返さないと解決にはならないようです。
少し時間はかかりそうですが、取り扱っていこうと思います。

とはいえ、今回の気づきの結果、もう少し英語が話せたらいいのにという想いが、もう少し英語を話したいという欲求のような方向に変化したのは収穫でした。

谷 孝祐
2015.12.3 23:25