浸透したボーダレスな感覚 | 3年前のしこうの楽しみ

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数日前に羽田空港発の深夜便で旅立ちました。
搭乗して離陸までの間にふと何度目の海外渡航なのだろうと思いつつ、数える気にもならないままあれこれ回想していました。
そして、ここ数回はその度に外国に行くことが自分にとって全く特別ではなくなっている実感が増していることを思い出しました。

そもそも他の国に行くという感覚が薄らいでいるようです。
そして国という概念すら自分にとっては形骸化してきています。
いつの間にかこういった状態が格段に定着したようで、今回は国内線の機内にいるのとほとんど変わらない気分で過ごしているような様子でした。

そんなわけで、なぜこの変化が起きたのかを考えてみました。
慣れてしまって日常の範囲に位置付けられたといえばそうなのでしょうが、過去に抱いていた特別感は何だったのかということを探ることも可能でしょう。
つまり、その原因がなくなったと解釈することもできるわけです。

このように意識を向けてみると、見えない領域でのボーダーが薄らいでいるような感じがありました。
3年くらい前までは飛行機で日本の国境を越えると何らかの体感覚の変化がありました。
特に帰国時に日本の領域に入ると必ずと言っていいほど体が温かくなっていました。

それが今は感じられません。
なんだか平坦になった気がするのです。
これはオリンピックが東京に決まったことや来日する外国人が増えたことによる集合意識レベルでの変化の影響なのでしょうか。

それとも自分の内面の変化が投影されているだけのことでしょうか。
確かに様々な国々を旅していると国境に対する感じ方は変化します。
ヨーロッパでは日本でいうところの県境くらいのイメージです。

様々な方法でいくつもの国境を越える中で、固定化していたイメージが解けたことは確かでしょう。
それと共に日本人の多くが無意識的に持つ国境という価値観からも離れられた気がします。
つまり、国と国の境目という意味以上のものを一切感じなくなったわけです。

とはいえ、やはり世界的な意識の変化もあるのかもしれません。
インターネットの普及により情報が行き渡りやすくなり、世界が急速に平板化の方向に向かっているように思います。
国と国との違いよりも都会か田舎かという差の方が大きいようにすら感じます。

異国という言葉はすでに実態に合わなくなっているかもしれないわけです。
各国の言語が日本でいう方言のような扱いになっていき、英語が標準語となっていく流れも否定できそうにありません。
ふと、日本もそんなプロセスを経て一つにまとまっていったのかもしれないと思ったのでした。

谷 孝祐
2015.11.28 16:46