大切な主体としての目的 | 3年前のしこうの楽しみ

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先週に浮上してきた生まれてきた理由についての課題を取り扱ってみることにしました。
自分を客観視するなら目的はわりと明確な感じがするものの、主観でとらえようとすると分からなくなってしまうというアンバランスな状態になっています。
これが自己否定とは言わないまでも自己肯定させにくくさせていることは確かでしょう。

こうして意識を向けてみると以前はもう少しバランスが取れていた気がしてきました。
客観的にすべきことと主観的に得たいものがうまくリンクしていたのです。
それがいつしか離れてしまっていたのでしょう。

以前の今生の主観的な目的といえば、地球の良さを味わって楽しむというようなイメージで認識していましたが、知らず知らずのうちに色あせてきてしまったのかもしれません。
一般的には幸せな悩みと言われて怒られてしまうかもしれませんが、様々な充実した体験を経て十分に満足してしまい、心の深いレベルでも求めるものがなくなってしまったような気分です。
言い換えるなら概ね成長欲求がなくなってしまったというところでもあります。

実際のところは、この世はまだまだ知らないことや体験していないことに満ちているはずなのに、そこに魅力を感じられないのです。
常に楽しさや安心感の中にいる気がして、それに甘んじてしまっているのでしょうか。
それとも、 未体験のものはもういらないということなのでしょうか。

確かに自分の本質からずれてまで新たなものを追い求める必要はないでしょう。
そんなわけで、あえてこの場所から出なければならない理由もないようにすら思います。
このように感覚的思考を巡らせていると、足るを知るということを心の支柱の一つに据えてきた自分にとって、主体として得たい何かは全て得られてしまったような気になっていることが知覚できました。

世に名をはせる成功者に比べればはるかにちっぽけなものですが、そのような人との比較は自分にとっては意味のないことです。
そして、もしそうなのであれば新たな主体における目的が必要になってくるでしょう。
なぜなら、客観的な目的を進める限りにおいて、主体がついていかないという自己乖離が進むことは大きな足枷になりかねないためです。

ここまで探ってきて、ふと主観的に得たいものは新たな感覚であるような気がしてきました。
もちろん、これはもともと認識していましたが、純化されてフォーカスがより合いやすくなっているようです。
これを例えるなら、スキーをしたいのではなくスキーを通じて得たい感覚に焦点が合わせられるようになったイメージです。

つまり、今まで以上に何をやるかということではなく、何をいつどこでどのようにやるかという複数軸での判断が高精度で必要になるということです。
ここに意識が合ってくると、一期一会を人生においていかに積み重ねられるかという言葉が思い浮かびました。
もう少し毎瞬ごとに明瞭な意識状態で感覚を受け取っていくことが、今の自分にとっては重要なのだと感じました。

と同時に、これが人生における至高の楽しみを味わえるようになるプロセスなのかとも思いました。

谷 孝祐
2015.11.17 17:36