朝起きてシャワーを浴びている最中のことです。
何かの影響が洗い流されたのでしょうか。
ふと、疑問が湧いてきたのでした。
それは、悪気なく平気で嘘をつく人の心境はどんなものかということでした。
今まで自分はこのタイプに騙されることが多かったように思います。
もちろん、相手にそのつもりはないのでしょうが、だからこそ言葉をそのまま受け入れてしまったわけです。
言葉にその通りの意味がないと勘づいていても、感覚的に疑うことができませんでした。
それは、その瞬間の相手の気持ちとしては真実であるためだと推測されます。
このあたりまではすでに分かっていたのですが、ここから先はあまり考えたことがありませんでした。
世の中にはそういう人もいるというように片付けてしまっていたわけです。
しかし、今回はなぜそうなっているのかということに興味が湧きました。
この程度の理解では、また同じような事象を引き込む原因になりうると、無意識に感じていたのかもしれません。
ひとまず、より深い理解を必要としているようでした。
少し理由を探っていると、自分との違いが浮き彫りになってきました。
自分は小さい頃、人の嘘を見抜いてしまう性分だったために、嘘はいずれバレるものという価値観がありました。
そして、その結果が良いものではないことも観察していました。
だからこそ誤魔化さず誠実に生きることに意義を見出して、言行一致を習慣化させる努力をしたのだと推測できます。
その動機が不安だったことは否めないでしょう。
そして、これが投影を起こしてしまっていたのでした。
しかし、もしこのような感覚を持ち合わせず、嘘がバレて嫌な思いをしたこともなければ、嘘と善悪は関係のない問題かもしれません。
誤魔化すことで積んだ成功体験が多く、その弊害を体験しない、もしくは体験しても認識していないとするならば、その場限りの嘘をつくことは本人にとっての成功法則の一端を担っている可能性すらあるわけです。
結局のところ、感覚も体験もなかったというだけの違いで本人の中では普通のことでしょう。
だからこそ、今までそういった人を許容して巻き込まれてしまっていたのだと回想します。
ここまで、思考が進んでこの弊害を感じていない自分がいることに気づきました。
悪意のない虚偽に翻弄されるデメリットを認識できていないようでした。
個人的視点では面倒くさいものの避ける対象に思えません。
なので、視野を広げて一生懸命考えました。
そうして思い浮かんだ答えは、それを許容することはそれを承認することと同等であり、承認するだけの責任を社会に対して負うということでした。
つまり、簡単に言うならば社会に悪意なき虚偽が蔓延することを肯定する立ち位置になってしまうわけです。
これは、願わないことなので修正しようと決めて、シャワーを終えたのでした。
確かに悪意なくとも虚偽になれば自分は責任を負うと感じて、承認する意味のないことを実感したのでした。
谷 孝祐
2015.8.23 18:31