4歳くらいの話だと思います。
それは幼稚園に行くときに起きたことです。
理由は覚えていませんが、玄関を出て道路に出たところで転んでしまいました。
これ自体はそんなに特別なことではないでしょう。
しかし、その瞬間にバイクが通り過ぎたのです。
おそらく原付きだったと思います。
振り返れば絶妙なタイミングだと感じます。
記憶の範囲では右手の指の数センチ上をタイヤが通ったイメージです。
相手がよけてそうなったのかは分かりませんが、ぎりぎり轢かれずにすみました。
たまたま目撃者もおらず、バイクもそのまま行ってしまいました。
そんなわけで、ひとまず大事に至らずにすみました。
親は心配したものの転んだ怪我の傷のみが残りました。
ただ、この一件は鮮明に呼び起こすことができます。
といっても恐怖体験というような位置づけでもありません。
よくよく考えれば、ほとんど意味づけがないのに印象に残っているのです。
これはこれで不思議でもあります。
そんなわけで、より深く意識を向けてみることにしました。
この体験がどのような意味を持っていたのか評価を試みようとしたわけです。
まず当時の自分に意識を合わせてそこから客観視してみました。
すると何かに狙われていたような気がしてきました。
確証はないものの場合によっては轢かれて死んでいた可能性もあったようです。
ある意味で、人生で初めての分かれ道だったのかもしれません。
こんなことを考えていると、当時、轢かれた場合にどうなっていたのかというイメージが何パターンか浮かんでいたことが思い出されました。
それは、そのままタイヤに巻き込まれて引き摺られたり、跳ね飛ばされたり、というようなものです。
思い浮かぶ選択肢の中では、一番影響の少ない現実が起きたようでした。
だからこそ、フラットな記憶にとどまっていたのでしょうか。
ともかく、これが起きなかった現実に対する初めての認識だったようにも思います。
そのようにとらえると、確かにこの辺りから同時にいくつかの可能性を画像的にとらえるようになった気もします。
今までこのような認識はなかったものの、同時知覚のきっかけと位置づけてこの体験を受け取ってみることにします。
そして、それによる変化をみつめていこうと思います。
谷 孝祐
2015.8.14 16:17