人間であるという認識 | 3年前のしこうの楽しみ

3年前のしこうの楽しみ

ブログの説明を入力します。

先日、朝起きてすぐに思い浮かんだ言葉がありました。
それは、「自分が人間である」というものでした。
なんでこんなに当たり前のことが浮かんできたのか疑問に思い、横になったまま、しばらくの間この言葉に意識を向け続けてみました。

そうすると意外なことが分かってきました。
もちろん固定観念レベルでは「自分が人間である」ことは周知の事実ですが、感覚レベルではそういった認識はないようでした。
感覚において自分が何者であるかどうかは重要ではないようでした。

そういう意味において、自分の名前も同様の扱いのようです。
つまり、自分を規定する情報と感覚が切り離れているということです。
おそらく以前はそうではなかったのですが、様々な内面的取り組みの結果、固定観念が感覚に影響を与えなくなったと推測されます。

それがいつのことなのかはとらえられませんが、7月後半に感覚と意識の距離を縮めたことによってこの状況が明らかになったのかもしれません。
これは、固定観念と意識の距離が離れたことを意味し、意識における「自分が人間である」という認識を低下させたという可能性があります。
だから、再認識する必要があって突然浮かんできたという可能性はあるでしょう。

そうであるなら、感覚において本当にこの認識を持つ必要があるのかどうかという問題が出てきます。
普通に考えれば、その方が自己一致した状態を保てそうです。
ただ、人間という概念に縛られる度合いは上がるかもしれません。

そう考えると、そもそも人間とは何かという問題が明確にならないと、判断できないように思えてきました。
不確定なものに縛られることほどリスクの高いことはないかもしれません。
そんなわけで、より的確な表現に変えることにしました。

人間を、肉体を持った存在であると定義することにおそらく異論はないでしょう。
なので、ひとまず「自分が肉体を持った存在である」という認識を感覚レベルで持つことにしました。
面白いもので、この変化から数日すると、以前よりも体の状態を感覚的にキャッチしやすくなった気がします。

特に空腹の感覚が明確になったのは興味深いことです。
これに何の意味があるかはわかりませんが、経過を見つめていこうと思います。
こんな視点を持ってふと道行く人を眺めてみると、感覚レベルで自分が人間である(肉体を持った存在である)という認識をしている人は案外少ないのかもしれないと感じたのでした。

確かに、そうでなければ体を酷使したり無視したりできないと思い、自虐的な行為が成立する理由がわかった気がしたのでした。

谷 孝祐
2015.8.13 16:52