自分という場における不一致 | 3年前のしこうの楽しみ

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来るもの拒まず去るもの追わずという言葉は多くの人が知っていることでしょう。
個人的にはモットーにもなっているものです。
しかし、ふとこれで良いのかという疑問がわいてきました。

きっかけは自己における在り方のアンバランスに気づいてしまったためです。
それは、ちょうど環境が人に与える影響のことを考えている時のことでした。
整理整頓された空間に身を置いていれば、それだけ自分のクリアな状態を保ちやすいことを思い出し、自分にとって不要な物をその場に入れないことの意義を再確認したところでした。

ここで意識のフレームが変化し、自分の人生という場を一つの空間ととらえたらどうなるのかというイメージがわいてきました。
もしこの場が整理整頓されたものであるのであれば、クリアな状態を保つことはより簡単になるでしょう。
おそらくなんらかの意図を持たずに良い状態が自然と維持されるのではないかと思います。

結果的に、実際の空間にも整理整頓されるべき対象が入ってきにくくなることは確実です。
ちなみに、クリアな状態であることの有益性は、本来の自分の道を歩みやすくなるとともに、充実感のある日常を過ごせることにあると考えます。
逆の側面からとらえるなら、モヤモヤした気分やわだかまりなどの滞りが生まれにくくなって心理的に快適さの中で過ごせると言うこともできるでしょう。

このように思考が発展すると、自分は空間の整理整頓には高いプライオリティーを感じているのに、それ以外には無頓着であるということが浮き彫りになりました。
特に人と情報に対しては自分という場の領域のボーダーラインがないような気がしてきました。
こうして自己の在り方において大きな矛盾点が見つかったわけです。

そして、この文章の冒頭の表現とぶつかってしまったわけです。
思い返せばこれは意識的に選択したわけではなく、物心ついたころから影響を与え続けていたと推測されるものです。
そんなわけで、不一致を是正するために再定義する必要が出てきました。

これはある意味でこの表現のとらえ方を今の自分に合ったように特定するという作業です。
矛盾とならないこの概念のフレームを決めるとも言えます。
そうして思い浮かんだのが、来るもの拒まず(自分の人生という場に入れるかどうかは判断し)去るもの追わず(快く見送る)という形でした。

この定義はなかなか自分の感覚にマッチしたので、そのまま取り入れてみようと思いました。

谷 孝祐
2015.7.10 22:43