生きる前提の切り替え | 3年前のしこうの楽しみ

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存在価値というものについて再考してみました。
もし誰もが生まれながらに存在価値があるとするならば、そもそもそれをどこかに見出そうとすること自体が不合理なように思えたためです。
それは、元からあるものをないものとしてとらえたことによりどこかに求める必要がでてくるという構造になってしまっていることを意味するでしょう。

これはバーストラウマによるブラインドが生み出すものなのでしょうか。
つまり、本来すべきことは、どこかに自分の存在価値を求めるのではなく、生まれながらにある自分の存在価値を認めればよいということになるわけです。
自分自身も今までは存在価値をどこに見出すのが妥当かというベクトルで考えてきましたが、それも虚構ということになってしまいます。

最終的に存在していることに存在価値を見出すというところまで行き着いていたものの、結局はそれを見出す必要がないという結論に至ったわけです。
なんとも滑稽ではありますが、これは一つのパラダイムシフトかもしれません。
なぜなら生きる上での前提条件が入れ替わるからです。

存在価値を存在に見出すことも含め、その在り方は存在価値がないととらえているからこそ生まれてくるものです。
存在価値があることが前提なのであれば、顕在意識化して話題にする必要もないでしょう。
存在価値があることが前提なのであれば、自分にそれがあるかないかという発想も不要でしょう。

ただ、このシフトは一見喜ばしいことのように思えますが、自分が存在価値があるという前提として自分を認めることは、100%自分の人生に責任を持つことにつながりそうです。
なぜなら、価値がないという言い訳はできなくなり、自分の人生に起こる全てを全身全霊で受けとめる必要が出てくるからです。
これはこれで大変そうでもありますが、それが本当の意味でこの世に存在するということなのかもしれません。

このように書きながらも切り替わりきらない感覚がありますが、この移行を確実に完了したいと思います。

谷 孝祐
2015.5.24 19:00