損得勘定は損得感情 | 3年前のしこうの楽しみ

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ホテルのラウンジで外を眺めている時のことでした。
ふと、損するとか得するとかということは存在するのだろうかという疑問がどこからともなく湧いてきたのでした。
突然のことで何がきっかけになったのかわかりませんが、その場所で何らかの潜在的な刺激を受けたのかもしれません。

そして、損得勘定というものは本質的には存在しえないという思考に、意図もしないままに自然に発展しました。
そう思うと、損得勘定の実態がとらえられました。
それが存在しないという視点から眺めてみると、的確にとらえられるようになるのは面白い感覚のように思います。

結局は外からとらえることで、その本質がみえるのでしょう。
それは、地球上にいても地球の全容が認識しにくいのと同じなのかもしれません。
さて、損得勘定というものが本当は存在しないとしたら、それを存在しているかのごとく映し出すのは何の働きなのでしょうか。

それは、紛れもなく自分自身の意識、もしくは人類全般に共通する集合意識の投影なのかもしれません。
多くの人は善悪の価値観と同じように、物事を二極軸において理解することが多いように見受けられます。
そのうち、自分が主観的に得たいと思うものが効率的に得られる時ほど、得をしたと感じることができるのではないでしょうか。

つまり、主観が変われば何が得にあたるのかも変わるわけです。
例えば、お金が欲しいと思っていた人が、お金よりも重要な価値観を見出して、お金を得るという軸において効率性を求めなくなれば、お金において得をするという価値観はなくなるわけです。
そう考えると、損得は結局のところ本人の価値観を強く表しているものと考えることができるでしょう。

そうであるなら、何でも受け取れるようになればなるほど、損も得もなくなっていくわけです。
なぜなら、何かを得ることは何かを失うことであり、何かを失うことは何かを得ることにつながるためです。
どうであれ、多次元的にはそういった交換の正当性は保たれているのかもしれません。

それを踏まえた上で自分の得たい価値を手にすると、より有意義にその価値を生かしていけるように感じ、そういった意識を保っていこうと思ったのでした。

谷 孝祐
2015.1.27 22:45