先人の知恵が必要な意味 | 3年前のしこうの楽しみ

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人生を分けるものが認識できたと共に、疑問が生まれました。
それは、この世がなぜ先人の知恵を拝借することでうまくいくというシステムになっているのかということです。
ここが明確にならないと、人との出会いによって人生が分かれることの説明性が低いように感じたのでした。

もし本質的に自己の内部にすべての情報が在するとしたら、わざわざ他人の影響を必要とする構造でなくてもよいわけです。
そうだとしたら、徹底的な自己探求でも済む話でしょう。
わざわざ誰かに師事する必要もないわけです。

しかし、現実はそうでもなく、教わることで進みやすくなることは明らかでしょう。
教えてくれないと分からないという立ち位置までいってしまうと考えものですが、主体的な関わりで教わることは重要なことのように思います。
どの分野においても、的確なポイントが伝えられれば、それだけ理解も習得も早く確実に進められることは事実であるように見受けられます。

そのように考えていると、教える側と教えられる側の共同作業という発想が出てきました。
つまり、教える側にも理解が深まるなどというメリットがあり、そこにこのシステムの意義があるのかもしれないと思ったのです。
要するに持ちつ持たれつの関係であり、結果的にそれぞれに必要な学びのエッセンスが得られやすいという性質があるのかもしれません。

そうすると、教える側か教わる側かという問題は便宜上の話になってしまいます。
もしかしたら、この構造を使って分離した感覚から離れて一体感へと向かおうとしている可能性があるでしょう。
なぜなら、本当の意味で教わるとは、一切自分の解釈をいれずにそのまま受け取りことであり、これは教える側と一体になろうとしていくプロセスとも考えられるためです。

また、一人でできることの限界の低さを知らしめるという要素もあるかもしれません。
だから、人の力を借りる方がうまくいくという状況だと推測できます。
その辺りを踏まえて、常にまっさらな気持ちで学びを受け取っていきたいものです。

谷 孝祐
2015.1.26 22:38