面倒くささの原因 | 3年前のしこうの楽しみ

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面倒くさいと思うことは誰しもがあるでしょう。
その対象は人ぞれぞれ違うかもしれませんが、それは人類共通のものなのかもしれないとも思います。
今まではそんなふうに感じていました。

そしてそれに対する考察を深めることをしてこなかったように思います。
当たり前のこととして片付けていたために意識が向かなかったわけです。
しかし、ふと思うところがあって自分の中で面倒くさいという概念が弱まっていることに気づきました。

それは今の自分の日常について振り返った時でした。
埋まっている日々の予定やその合間に行っている作業のことを考えると、そこに以前は面倒くさいと避けていたものが含まれていることに気づきました。
それがいつの間にか何ともなくなっているのです。

そのさいたるものが出版に関するものだったり、事務的なものだったりしました。
どこかの段階で受け入れたからこそそういったものに取り掛かったわけですが、始めてしまえ面倒くさいと思った記憶がありません。
時間が大幅に必要だったり大変さを感じたりすることはありますが、気づけば面倒くさいという価値観はなくなってしまったかのようでもあります。

あれだけ面倒くさいという思いがあったのに、それは過ぎ去ったものであるかのように実体感がありません。
そこで、そもそも面倒くさいと思う対象の本質は何なのかということを疑問に思いました。
表面にみえている面倒くささの原因は、何かの投影だったのではないだろうかと考えたわけです。

そこで一つの仮説が浮かびました。
感じたくないことを感じさせられることが面倒くさいのであって、それを誘発する対象が面倒くさいものに当たるのではないかというものです。
今思えば、少なくとも自分の場合はそうであったように感じます。

やらなきゃいけないことが大量にあるのを感じるのも避けたかったし、細かなことをしなければならなくてストレスに感じるのも嫌だったし、人の反発やネガティブな反応を感じることから目を背けたかったし、という状態だったことが伺えます。
そして、そういった感じたくないことが感じても良いことに変わったから、面倒くさいと思わなくなったように思います。

ずいぶん感じないことにしていたのだと今更ながら反省したのでした。

谷孝祐
2014.10.28 12:33