自分らしさを忘れる | 3年前のしこうの楽しみ

3年前のしこうの楽しみ

ブログの説明を入力します。

モロッコからパリに戻るにあたり、費用対効果という価値観と自分という概念を手放す取り組みを回想しました。
そこで気づいた面白いことがありました。
それは、自分らしくあればあるほど影響を受けにくくなり適正な状態が保たれるとともに、自分と社会との境界を下げることができるという構造になっていることです。

これはある意味ではジレンマのようでもあります。
自分らしくあることが確立されて自分という存在が明瞭になればなるほど、実質的に境界が明確になるはずなのに、自分という概念を消せる方向に働くのです。
逆に自分らしくない状態であればあるほど実質的に境界が曖昧なのに、自分という概念を明示しなければならないのです。

つまり、自分らしくないほど自分らしさを誇示しないといられないという矛盾があるということです。
しかし、思い返せばこれは基本的なメカニズムです。
ある状態が当たり前になれば、それだけ顕在意識でその状態をとらえておく必要がなくなるのです。

健康な人が健康を意識しないのと同じように、豊かな人が豊かさを意識しなくなるように、本当に自分らしくなれば自分らしさを意識しなくてよくなり、自分という概念もいらなくなるということなのでしょう。
わざわざそのことを考えなくても、それが保たれるということです。
そういう意味では不要な影響を手放したことによって、結果的に自分らしくあることが当たり前の状態になれたことで起きた変化だったのかもしれません。

であるならば、これから意識すべきことは自分らしくあることではなく、自分らしいかどうかという発想が出てきていないかをモニターすることでしょう。
なぜなら、自分らしさが損なわれた時にそういった発想が出てくると考えられるためです。
時間に余裕があった時に時間を意識しなかったのが、余裕が減ってきて時間を意識し始めるのと似ています。

できていたものが意識に登り始めるということは、できなくなる可能性が出てきているというシグナルであることがあります。
この気づきによって、選択の安定性の担保が取れたように思えたのでした。

谷孝祐
2014.6.13 18:11