自分と社会の同一感 | 3年前のしこうの楽しみ

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自分という概念を手放すにあたって、阻害要因となっているものに意識を向けてみました。
阻害されているという実感はありませんが、自分という概念を形作っているものが何なのかを見つめてみるのです。
アイデンティティーを手放すことと似ている気もしましたが、アイデンティティーを手放して残ったものを自分と定義づけていたので、異なることは明らかです。

アイデンティティーが自分が自分と思いたい自分であるなら、自分はそのあとに発見された自分そのものであり、ありのままの自分であるかのようです。
それを手放すのは困難なようにも思えますが、見つめていくと案外シンプルでした。
自分という存在を自分のもののようにとらえていたのです。

つまり、他人や社会に比べて、自分を自分の所有物のように認識していたということです。
それは生きていれば当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが、明確になったのであれば、その所有意識を取り扱うのみです。
よく考えれば、自分が自分の所有者である理由はどこにも見当たりません。

自分という定義も不明瞭であり、肉体レベルにおいてさえ、その発生源である遺伝子を自分のものであると明示できるのかという問題があります。
自分を自分たらしめるものは、自分が自分と思っていることのみのように感じられるのです。
そして、与えられた何らかの存在を自分として扱っている可能性があるわけです。

与えられたということは本質的には所有しているものではないということでもあり、何らかの目的によって一時的にそこに帰属しているだけのものととらえることもできます。
そう考えると、もし所有者がいるのであれば、少なくとも自分という存在のオーナーは自分ではなく社会であると考えた方が妥当性が高いように思うのです。
実際に、社会が存在しなければ自分は存在しえないわけです。

このように考えると確かにその通りだと思い、自分という概念が不確実なものであるように感じられました。
そして、何となく自分という概念が不要なものと思え、不安定な感覚を持ちつつも社会との境界線が不明瞭になり、同一感が生まれてきたのでした。

谷孝祐
2014.6.12 16:55