自分という概念 | 3年前のしこうの楽しみ

3年前のしこうの楽しみ

ブログの説明を入力します。

変えるべき価値観のもう一つの可能性であった自分という概念を手放すという方向も模索してみようと思いました。
自分と社会という概念の区別をなくすという取り組みです。
そうすれば、自分が与えた価値を自分が受け取るという構造になり、費用対効果という概念と関係ないところにいけるという予想でした。

それは本当の意味で自分と他人の境界線がなくなるということかもしれません。
自分も他人も社会の一部であり自分と社会が感覚の上で同一視できるものならば、部分は全体の投影でありとらえられる全体は部分の側面であるとも考えられます。
また、それは社会への貢献を個人の主観レベルにおいても重要な価値の高いものと認識できる状態に導いてくれることと思います。

自分という主体すべてにおいて個人の満足よりも社会への貢献を上位概念とすることができるのです。
これはある種の理想論のようでもありますが、そうならないと自己の不一致が継続してしまう感じがしたということで必要性が生まれたのでした。
きっと自分が求める貢献と個人という枠が拮抗する状態になってしまっていたのでしょう。

個人の満足という価値観が個人の満足を生み出す阻害要因になってきたということでもあります。
しかし、よく考えれば費用対効果を選択の主たる基準から外す作業の中で、副次的に自分という概念も緩んできたようです。
適正さを重視するということは、個人を超えた意識状態が求められるわけで、必然的に自分の意識が個人という枠から引き出されたようです。

ただ、これでは十分ではないので仕上げの必要を感じました。
正面から考え直すことで、意識状態を安定させるのです。
そのためにやるべきことは単純で、自分が自分という枠にとどまっていては満足できないことを主観的にとらえることです。

それが主観的に納得できれば、個人という枠は必要なくなるわけです。
であるならば、納得できない要因を手放すことが自分という概念を手放すこととなるでしょう。
どんなものがあるのか探ってみたいと思います。

谷孝祐
2014.6.11 16:18