分かりにくい究極の許容 | 3年前のしこうの楽しみ

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アウトバーンを走っていてあることに答えが出ました。
おそらく制限速度がないという状況で運転することが刺激になったのでしょう。
時には170km/hの流れになったりすることもありました。

そんな中に入るのは生まれてはじめての体験でした。
といっても道路が想像以上に良く、日本でイメージするほどのスピード感はありません。
それだけのスピードで走る前提で道が作られているのでしょう。
流れに合わせていれば安心して走れました。

そして、そんな状況にみんなが慣れているのか、不自然な動きをする車も皆無と言っていいくらいで、その判断力に感心したのでした。
ストレスがほとんどないので、ちょっと100km先の町まで買い物にというのがありな気分にもなれそうです。
さて、答えが出たことですが、一見関係なさそうな許容のことについてでした。

本質的なというか究極的なというか、許容の最終形についてです。
それは、全てを許容した結果とれるバランスがどこにあるのかという問題です。
今まで許容のしすぎが迎合になってしまい、結果的に問題となることもありましたが、これは自分への許容の欠如という方向であり、全てを許容する方向とはぶれていたことがわかりました。

つまり、全てを許容する場合、当然ながら自分も他人も許容するバランスが必要ということになります。
それがどんなところかというと、自分らしくあることだという一見意外な結論に至りました。
しかし、よく考えると、相手がどんな反応をしようと自分らしくあることは究極的な許容でしょう。

なぜなら、究極的な自己受容であるとともに、相手が反応しようともそれをそのまま許すという立ち位置になるからです。
相手が反応しないようにふるまうということは、素直で自然な関わり、これには衝突も含みます、を許容していないことになってしまうのです。
もしかしたら、この許容を受け取ることは、多くの人にとって難しいことかもしれません。

しかし、受け取れるのであれば、常に許容されている安心感を感じられそうです。
それは、ありのままの反応を出して良いという安心感です。

谷孝祐
2014.3.6 6:17