最近は他者論を進めておりまして、では他者とは何かとかと申しますと、これは経営学的な視座からすると、研究対象ということになります。このように表現すると非常に「情け」ないように思われるかもしれませんが、もう少し深く掘りますと、自己にとって他者は静的であることを示します。

これは心理学的に実に面白いことでありまして、ノエマ的他者論は静的であるから成り立つという仮説も成り立ちます。心の動きをどこかで止めて議論することはユング心理学的に見ると考えられないことでありますが、他社論からするとこのような手法で他者を捉えることが現実として存在していることが大きな発見であります。

このように自己から他者を見てみると、他者は自己として動的でありながら、他者が他者である時、それは時としてその動的な態度は静的に捉えられており、実際の動きとは逆の作用が働きながら、しかし、自己は他者の動きをしっかりと捉える現象が起きております。

ユング心理学的にこの現象を解釈すると、これがいわゆる個性化ではなかろうかと思われ、他者の動的な動きを描くことを重視するには、一旦はどこかで静的に他者を考察する事が、実は大切なのではなかろうかと思われるのであります。

これもよく考えてみると、音が無意識であり、その音を可視化しようとする時は記号となり、記号となると音は静的になります。つまり、音を観察しようとするときは静的な状態であり、これゆえに何かを観察するという動作は、自然と静的な状態へと精神状態を導いており、そしてそれが既に無意識であることを示します。

ここまでくると、ライブを鑑賞するときの観客の態度は、やはり演者に対して興味を持つ事が最も大切でありましょう。そして、これはただ単に興味を持つだけではなく、演者を投影することによって自分自身が個性化してゆくだけの興味を持つ事が大切であるといえます。逆に演者は観客に対してそれほどの興味を持ってもらえるほどのアーティストにならなければならないということになります。

ライブ会場は無意識と無意識のぶつかり合いです。これらの無意識の衝突がなければそもそもライブの空間は成り立たず、これゆえにライブは難しいのであります。

インターネットの配信であれ生のライブであれ、意識している間はやはり大きな成功を治めることは難しく、その空間を共有する皆から発せられる無意識をどれほど活用することができるかで、アーティストとしての成否が決まってくるものと思われます。

今後、生のライブができるようになってくることを祈りつつ、今のうちから他者についての「静的論」を自分なりにまとめておく事が重要になるかと思われます。そして、そのようなアーティストが増えることを祈っております。

ご高覧、ありがとうございました。