前稿では他者論について一つの仮説を出すに至りました。他者論、この連載ではノエマ的他者論は静的であることがご理解いただけたかと思います。

自己は常に動的であるのに対し、他者については静的であるため、ある時点における他者の心理状態を知ることしかできず、つまり、これは観客の過去の歴史を知ってゆくことになります。自己からするとあいだのバランスが非常に悪くなってくることが特徴であります。とりわけ、観客の過去へ向かって自己は進行しますから、ある意味で自己は恐怖を感じるようになるかもしれません。

一方で観客もアーティストと同じような心の動きを見せます。観客の心は常に動いていながら、アーティストの心のダイナミズムを感じることは難しく、よって静的であるように感じます。

テレビやネットでみたあのアーティストだ!!であるとか、前に見た時と同じで、とても素敵だ!などと感じるのは、観客の志の動きはむしろ過去へ向いており、アーティストとの距離感は悪い状態となってしまいます。

ところが面白いことに、自己と他者が共に前に向かって進もうとする時、お互いの過去を共に観察しながら、前に進むことになります。しかしながらよく考えてみますと、観察する対象は過去を見てゆくことになりますが、それは未来を見てゆくことのため行われることであるため、ここでバランスをとっているともいえます。

ライブ会場での観客との一体感という言葉をアーティストと観客との両者から聞くことができ、この一体感こそが大切であるかのように、それも両者から語られるのですが、これは自己と他者の双方が互いに、それも無意識の部分で繋がっているからこのような現象が起こるものと考えられます。全てを意識しながられであれば、これら全てのことを90分から120分の公演の中で実現することは不可能であるためです。

このように考えてみますと、他者論において大切なのは、自己は他者から同じ影響をうけること、そしてその距離をどのようにとるかであります。

これも面白いと思うのですが、舞台上のアーティストが常に観客からの動的な心の動きを察知できたとすれば、怖くてパフォーマンスが、できなくなるかと思われます。なぜなら、観客は複数人だからです。会場に千人の観客が集まり、千人の動的な心の動きを察知しながらのパフォーマンスはとても不可能であると思われます。

よって、自己は他者を見るとき、一旦は時を止め過去へ向かい、他者はみらい方向へ進むことで全体的なバランスをとるものと思われます。

これは余談ですが、タイムマシンが実際に存在したとすれば、過去に向かうにしても未来に進むにしても、常に過去と未来が同時に存在しなければならないため、この時間軸を進みながら、第三者としての人間はどのようになるのか?を考えると、人間の新たな可能を知ることができるかもしれません。

このように、他者があるから自己であるわけですから、互いが理解しあえる環境を整え、互いが認め合う社会が作り上げられることを願っております。

ご高覧、ありがとございました。