彼女が唄うこの曲が、一番好きかも。
ちょっと、この半年間、私は自分に無理をしていたような気がしています。

勉強も遊ぶことも、とにかく頑張ってた。
良い意味で忙しくて、すごく充実してたと思ってる。
あぁ楽しいなー毎日充実してるなーって、埋まっていくスケジュール帳。
そんな自分に満足してた。


だけどふと気付いてみれば。
あれ、これでいいのかな、って。何か無理してるんじゃないかな、何か大事なもの忘れてないかな、って
「ちょっと待った」のサインが出てる気がしたんだ。

気がした、だけだよ。これが自分らしさなのかもしれないし。それはわからない。
誰かの「人間活動」宣言に、影響されてる訳でもない、つもりなんだけど。



私は周りの人が思ってくれるほどしっかりした人間でも、きれいな人間でもなくて。
本当はもっとだらしないし、色んなこといい加減だし、言葉べたで人見知りで、お調子者で見栄っ張り。
そのくせ頑固者で、どこか醒めてるところもあったりして。


そういう矛盾だらけの自分に対して、
しっかりしよう、強くなろう、って頑張ってみたけれど、
それは気張ってただけな部分もあったんだと思う。


そうやって自分を奮い立たせなきゃ、何もできっこないのはわかってるけど
ある意味では自分を否定してることにもなる。


自分を否定することで、自分に満足してしまうんだから。
なんて矛盾なんだろう。




「待った」のサインは、この私自身にある矛盾に対してだったのかなあ。

矛盾は矛盾として受け入れなきゃだめだね。
その上で、なんとかしなくちゃ。


思うのは、矛盾が矛盾でなくなるのは、「やりつづけること」。きっと、それだけ。

つづける。

今、自分にとって一番大事だと思えることを、とにかく続けてみること。それに限る。


大丈夫。ちゃんと、いろんなこと受けとめられる。
どんなわたしでも、わたししかわたしになれない。
何度も言い聞かせてる言葉。これもずっと、言い続ける。





明日は友達と、北海道旅行計画!
楽しみだ*

今まで、いろんなこと、ほんとうにいろんなことがあったけれど、
やっぱりわたし、わたしを好きになりたい。

一生わたしがわたしにしかなれないなら、
好きなわたしがいい。
いつだって、好きな人と一緒にいたい。



自分勝手かなんて、そんなのわからないよ。
良いことか悪いことかなんてこともわからない。

そうしたい、と思うことに
どうしてとか何のためにとか、正しいとか正しくないとか、
レッテルを貼ってしまうことって、なんだか変な感じがするよ。

何をするにも、「選択」は不可避だから
その選択基準にはなり得るのかもしれないけどさ。



自分との向き合い方を、もっと変えていかなくちゃいけない。

やりたいことばっかりやればいいんじゃあないし、
やらなきゃいけないことにとらわれても良くない。


今まで、人のことばかりみてたけど、これからは今までよりもっと、自分のことを見よう。
「建築はどこにあるの?」展・最終日 @近代美術館


いつだって、こういう展示は建築の可能性を示唆してくれる。それは同時に、新鮮さの肯定ではないし、建築とは何かを常に問いかけてくる。
▽ITO Toyoは、どこまでもITO Toyoだったと思う。つまり、もう彼というブランドが成立してしまってるような。模型では作れるのに実物、建物にはできない形態や構造、誰もが夢見るような造形を、彼は現実にしてしまう。それは柄谷行人が言うところの「建築への意志」を追求していると言えるだろうし、そういう意味ではまさしくケンチクカなんだなあと思ってる。おそらく、よくも悪くも、建築界の中で彼はそういう役割を担っている。陰で支える構造家の存在なくてはなし得ないことなんだってことをもっと考える必要がある。
▽Atelier Bow-wowのコメント。これを読まなければ、この展示に観た意味がないんじゃないかな。「建築はどこにあるの?」というタイトルに影響されすぎてはいけない。彼らの言うことは私にとっても最もなのだけど、建築言語を持たない人にはもしかしたらプラスの投げかけになったのかもしれない、と思いたい。
▽個人的には、NAITO HiroshiとNAKAYAMA Hideyukiの作品が気になった。「空間の抽象性」という内藤の作品は、20世紀が追い求めたビジョンの断片だという。20世紀の夢、はわかるような気がするのだけど、赤縞で表現されうるものなのかなあ。その辺りまでは、読み解けなかったよ。中山さんは、これからもとても気になる人。表現された建築から、新しく建築言語が生まれてこないだろうか。
今回の展示について、周りからはあまりいい評判を聞いていなかったけれど、個人的には楽しめました。
『Mercy Me』/wyolica


最近のお気に入り。
wyolica。

他にも素敵な曲はたくさんあります。
少しずつ、載せていけたら。

何度も、わたしを助けてくれた人。
わたしのSOSに、いつも応えてくれた人。

君にとってわたしが、数多くある関係の中の小さな一つだとしても、
その事実は変わらないよ。



こういう気持ちを知る度に
じゃあわたしはその人のために何ができているんだろう、
少しでも、わたしの存在がプラスになっているんだろうか、って
不安とも違う、悲しいとも違う、歯がゆいような、気持ちになる。

どれだけ、ありがとう、って言ってみても
どれだけ、君の前で明るく振る舞ってみても
まだ、足りない気がするんだよ。

わたしが、一方的すぎるのかな。


だけど、人のために自分に何かできる、って思うのは、きっと傲慢。
何かしてあげたい、って思えて、相手が喜んでくれることを想像して、自分なりに実行できたら、
それで満足すべきなんだろう。


相手は人形じゃないんだから。
何かを感じ取ってくれる。丸か三角かバツかは、相手次第。


きっとなんでも、ギブアンドテイクなんだろうなー。
個人的には、フォーとフロムのほうがしっくりくるけども。


相手からのアクションには、ちゃんと応えよう。
投げっぱなしは、ときに歯がゆいし。
受け取りっぱなしは、その時は良くても、あとから悲しくなるよ。



こんな当たり前のことを、当たり前に書いています。
それでいい。

言葉で出てくるのはここに表現されるけれど、
書いているわたしの中には、いろんなこと巡ってて、
今の研究にも、コンペにも、会いたい人にも、今日のこと、明日のこと、ずっと過去のことにも、
繋がってる。

思考は、いろんなところにリンクしていくから。
思わぬところで、つなぎ目を持つことがあったりして。
面白いよ。



誰が読むわけでもないこのブログ。
誰のためでもなく、自分のために。

「ぜんぶを信じるのはむつかしいけれど、疑ってばかりじゃ疲れちゃうよ」

誰かを信じることと、依存することは違う。
そこを混同してしまうと、あとには疑心しか残らないような気がするよ。

たぶん、ここでいう 信じる は、=人は人と割り切ること、に近い気がする。

人を信じてみる。人は人だって割り切ってみる。
それは同時に、自分は自分だって割り切ること。責任を伴うこと。
こうやって、信頼から自立が生まれるんじゃないかなあ。


おもえば信頼も自立も責任も、どれも言葉の差異だけで、
ちょっとした使い方の違いだけで、おんなじこと意味してる。



言葉は、いつもあいまいだ。


それを、なんとなくなんだろうけども解った上で、選び、使う。
あきらめでなく、だよ。


あいまい故に。良くもわるくも、好きも嫌いも、どんな風にも変化するんだ。

だから、工夫が必要。


だったら、素敵に変化させようじゃないかっ。


言葉を知り、世界を知り。
消化・吸収を繰り返して、噛み締め、創造され得た言葉で、
きらきらして、わくわくするような、そんな想像力を届けたいよ。


それはきっと非日常の世界だけど、常に背中合わせに存在してる。
池澤夏樹の、「春の雨」みたいに。
わたしの中に、そっと、深く、浸透していく。


あなたが何を想い、何を考えているのか、わたしにはわからないように、
わたしが何を想い、何を考えているのか、あなたにはきっとわからない。

お互いさまだよ。



態度では示しきれなくて、
言葉はすべてを表現するには足りなくて、
本当の想いは、わかってもらいたいようには
わかってもらえないし、わかってあげられないもの。



言葉でも、態度でも、伝えきれないこと。
ただひとつ、伝えられるとしたら、空気なんじゃないかなと思う。

気配とか、なんとなく、感じるもの。
その場に見えなくても、漂ってたりするじゃない。
「秋の気配」「春の匂い」、って、わかるひとにはわかる。
小さなしるしやサインが、すべてを教えてくれることってある。


だから大事な人とは、同じ空間にいなきゃいけないのかもしれない。
離れちゃいけないのかもしれない。
離れるほど、不安になるもの。



わかる人には、わかる。感じられる。
だけど、わからない人には、きっとわからない。

言葉でもなくて、態度でもない。
本当の本当の気持ちは、そういう何かでしか、伝わらないのかもしれないよ。






わたしのケータイ嫌いの原因はここにあるのかもしれないです。
たしかに、ケータイは必須。どれだけ助けられていることか。

だけど、文字だけじゃ、声だけじゃ、
何もわからないし、何も伝えられないって思うことがあるんだよ。
同じ場所で、同じ時間に、そのすべてを感じていられる距離にいなきゃ、やっぱりいやだよ。



そして、建築という分野は、否応なくそのすべてを含んでしまうんだ。
建築と向き合うことは、人と向き合うこと。
その矛盾、感性、道理、すべてとぶつかっていかなきゃ。
ただ、好きなだけだったんだけどな。
それだけじゃ、だめなんだ。
当たり前だけども。

恋愛ベタらしいです、わたし。
うん。それは。自覚あり。思いっきりそうだもん。



好き、だけじゃだめなら、
好き、って何なんだろう。


ここにも書いたけれど、本能的な、好き、はそれだけじゃだめなのかな。

きっとはじまりはここなのかもしれないけれど、あくまで、きっかけと土台。

その人とひたすら向き合うこと、同じ時間を過ごすこと、同じ空間にいること。

わたしと、君。ふたり。


人と人が関わるとき、そこに生まれるひとつの「関係」。
それは、ひとつの社会みたいなもの。

広い社会の中では、たくさんの人と関わって、たくさんの「関係」があって。
そしてそれは、強かったり、薄かったり、近くて、遠い関係だったりする。
どこかが壊れても、どこかで繋がってて。
きっとうまく、バランスをとってる。


わたしと、君。ふたりの関係。
たったふたりで、つなぐ関係。
きっと、思う以上に、脆いんだと思う。

「好き」だけじゃ、すぐに壊れてしまうくらい。

たぶん、「好き」が繋いでくれるのだけど、結んでくれるのだけど、
それが解けないように、ほどけないようにするのは、もっと別の何かなんだろう。




吉本隆明が「対幻想」だなんて言ったって、
それが現実なんだ。
もしもそれがなかったら、なんて味気ない世界。



なんだかんだ言ってみても。
わたしは結局理屈ばっかりこねてしまうんだなぁ。


もっと、素直に生きていたいよ。
気持ちの赴くままに、この世界を感じていたい。


歴史なんて知らなくたって、未来が見えなくたって、
政治も経済もわからなくたって、
ただ自分を取り巻く「関係」の中で、一生懸命生きて。
笑ったり、落ち込んだり、泣いたり、怒ったり、
あー幸せだなーって感じたり。

たとえば生涯たった一つの関係しかなかったとしても。
そのひとつに精一杯になれたなら十分で。

ほんとは、ただそれだけでいいんじゃないか、って思ったりすることがたまにある。



そんな気持ちを胸にそっと秘めながら。
明日も笑っていられるようにと、願うばかりです。