「内面の発見」
p.60
<我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何人も耳を貸そうとはしまいから、序文の変わりに書き残しておくのである。>
風景が以前からあるように、素顔ももとからある。しかしそれが単にそのようなものとして見えるようになるのは、視覚の問題ではない。そのためには、概念(意味されるもの)としての風景や顔が優位にある「場」が転倒されなければならない。そのときはじめて素顔や素顔としての風景が「意味するもの」となる。それまで無意味と思われたものが意味深く見え始める。
「精神的な印象を客に伝える表現を作り出すのに苦心した」というのだが、実際は、ありふれた(写実的な)素顔が何かを意味するものとしてあらわれたのであり、「内面」こそその何かなのだ。「内面」ははじめからあったのではない。それは記号論的な布置の転倒のなかでようやくあらわれたものにすぎない。だが、いったん「内面」が存立するやいなや、素顔はそれを「表現」するものとなるだろう。演技の意味はここで逆転する。
市川団十郎がはじめ大根役者と呼ばれたことは象徴的である。それは、二葉亭四迷が「文章が書けないから」言文一致をはじめたというのと似ている。
p.61
文字の根源性をみえなくさせてきたのは、音声と文字が音声的文字として結合してからである。
p.60
<我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何人も耳を貸そうとはしまいから、序文の変わりに書き残しておくのである。>
風景が以前からあるように、素顔ももとからある。しかしそれが単にそのようなものとして見えるようになるのは、視覚の問題ではない。そのためには、概念(意味されるもの)としての風景や顔が優位にある「場」が転倒されなければならない。そのときはじめて素顔や素顔としての風景が「意味するもの」となる。それまで無意味と思われたものが意味深く見え始める。
「精神的な印象を客に伝える表現を作り出すのに苦心した」というのだが、実際は、ありふれた(写実的な)素顔が何かを意味するものとしてあらわれたのであり、「内面」こそその何かなのだ。「内面」ははじめからあったのではない。それは記号論的な布置の転倒のなかでようやくあらわれたものにすぎない。だが、いったん「内面」が存立するやいなや、素顔はそれを「表現」するものとなるだろう。演技の意味はここで逆転する。
市川団十郎がはじめ大根役者と呼ばれたことは象徴的である。それは、二葉亭四迷が「文章が書けないから」言文一致をはじめたというのと似ている。
p.61
文字の根源性をみえなくさせてきたのは、音声と文字が音声的文字として結合してからである。