「内面の発見」


p.60
<我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何人も耳を貸そうとはしまいから、序文の変わりに書き残しておくのである。>


風景が以前からあるように、素顔ももとからある。しかしそれが単にそのようなものとして見えるようになるのは、視覚の問題ではない。そのためには、概念(意味されるもの)としての風景や顔が優位にある「場」が転倒されなければならない。そのときはじめて素顔や素顔としての風景が「意味するもの」となる。それまで無意味と思われたものが意味深く見え始める。


「精神的な印象を客に伝える表現を作り出すのに苦心した」というのだが、実際は、ありふれた(写実的な)素顔が何かを意味するものとしてあらわれたのであり、「内面」こそその何かなのだ。「内面」ははじめからあったのではない。それは記号論的な布置の転倒のなかでようやくあらわれたものにすぎない。だが、いったん「内面」が存立するやいなや、素顔はそれを「表現」するものとなるだろう。演技の意味はここで逆転する。
市川団十郎がはじめ大根役者と呼ばれたことは象徴的である。それは、二葉亭四迷が「文章が書けないから」言文一致をはじめたというのと似ている。


p.61
文字の根源性をみえなくさせてきたのは、音声と文字が音声的文字として結合してからである。


あなたの前では、嘘が言えない。
すべてを見透かされているような気がして。

だけど、こわいとかじゃない。すごくすごく、温かい。

この人なら、わたしのことを誰よりも理解してくれるんじゃないかって、そう思わせてくれた。
素直に、わたしを言葉にしたいと思えた。



話してみないとわからないこと。
言葉にして、初めて理解できる。
そういう言葉。



まだ、断言はできないけれど、
こういう人と繋がれたこと、すごく嬉しい。
大切にしたい。
いらないプライドだらけだった。
自覚していたつもりだけど、「つもり」だけだったよ。

そういうのを言葉にしてしまったあとの、口の中がざらざらするみたいに、いやーな気持ち。
もう、味わいたくない。

言葉にするのは、もっときらきらした言葉がいい。
言われた方も、言った私も、そのほうがだんぜん!気持ちがいい。

人はだれだって、素敵なところも、自分勝手なところも、それ違うんじゃないかな、っていうところも、
たくさんの面を持ってるものだと思うんです。
そういうのは、見せたくなくたって、自然と見えてきてしまう。

いつだってその人の素敵なところを言葉にしていたいとおもうよ。
嫌だなって思う部分が見えてしまっても、
本人に言えないことなら、他の人にも言っちゃいけない。


そう思います。





「言葉はさんかくで、心はしかく。まあるい涙。」

くるり。

どきっとする。

「僕、思うんですけどね。男と女じゃなくても、
 優しくしたい人に優しくするの、悪いことじゃないでしょ?
 別に報われなくても好きな人は好きでしょ?
 恋人とか、友達とか、同僚とか、わざわざ名前つけなくても…せっかく出会えたわけだから。
 この世に自分以外に大切な人がいるっていいじゃないですか。」


                             『君といた夏』北川悦吏子


15年くらい前の小説。ドラマにもなった。
一生懸命すぎるほどの、それぞれの、「片想い」。

今だからわかることがたくさんあったよ。
みんな、共感する部分があった。

人を想う気持ちって、みんな一緒だよ。
かたちは違っても、結果がどうでも、
わたしのそれも、子どもも、おばあちゃんも、政治家も、ホームレスだって、
それは同じだ。

それくらい、尊い気持ち。


「人間らしい」って。やっぱり感情があるからだと思う。
たくさんの感情が、世界を色鮮やかにする。

それぞれが、そういう感情を教え合うの。
それがコミュニケーションでもあると思うの。

やばい!何を思ったか、昔々の8cmCDをパソに入れてしまった!
聞けるわけないじゃんか!

取り出せないよー;どうしよー;;
明日、PC詳しいお方に聞いてみよう。

姉様が捨てた8cmCD。
ドリカムの「LOVELOVELOVE」とプリプリの「Diamonds,M」、平松愛理の「部屋とワイシャツと私」。
ZARDの「君に会いたくなったら」。

古いですよ。でも名曲たちです。

聞きたくなってしまったんです。
だからってね、Macには入らないでしょうーー;




ところで、先日中学時代の友達から妊娠&結婚の報告を受けました。
わー!ついにきたかー><という感じだったよ、正直いうと。

ずっとごぶさただった友達。
あんなに仲良くていつも一緒にいたのに。

って離れてしまったのは私の方かあ。。。

でもね、素直に、嬉しいです。本当に。
どうかどうか、幸せになってほしいな。

連絡ありがとう。式にはかならず行くよ。今度こそ。
まっさきに「おめでとう」って言うんだから。
携帯を変えました。

悩みに悩んだ末の、えくすぺりあ。どこも。

ネット環境に、取り巻かれすぎることに、抵抗があった。
今まで以上に、携帯に依存してしまいそうで、それがいやだったから。


でも。
とりあえず、新しいものには常にチャレンジしてみたいです。

で、やっぱり合わない!と思ったら。
もとに戻すなり、別のにするなり、使い方を工夫するなり、してみれば良いことだものね。



なんかさ。
一日くらい、みんな一斉に携帯を使わない日があっても良いと思うのだけど、いかがなもんでしょうか。
むりなのかなあ。社会が機能しなくなってしまうかなあ。

本当は一週間くらいあっても良いと思う。
いろんなことに、気付かされるんじゃないかなあ。

その間だけはさ、いろんなとこに、公衆電話おいて。
みんな一斉に並んじゃったり。
電車の中だって、だいぶ変わるんじゃないかー?

なんて。











会いたい人がいます。
どうしようもなく。
だけど、会ってしまえば、わたしはまた、何もできないままなんだろう。
君は今、どこで、何をしてるのかな。何を考えているのかな。
苦しさはいつまでたっても、消えていかなくて。
ぐるぐるぐると、回り続けてる。
どうしようもないね。

人生はやり直しがきかないもんね。
あのときあーしてれば、なんて数えたらきりがないことに目を向けていたところで
何も変わりはしないんです。



’ぼくの記憶は80分しかもたない’

    「博士の愛した数式」/小川洋子


博士はどんな気持ちで毎日を過ごしていたんだろう。
どんな気持ち、も何もないか。
これって、あなたは80分しか生きられないですよ、っていうのと同じことだよね。
ううん、たぶんそれよりもっと残酷だ。
生きるっていうのは、たぶん、終わりがあるから全うできるんだもん。
博士の80分は、終わりがない。常に繰り返される。
繰り返されることを知っていながら、だけど、どの80分も知ることができない。

80分経てば、どうして自分がその場所にいるのかわからなくなる。
映画一本すらまともに見ることができない。
80分外に出ただけで、家に帰ることすらできなくなる。
何がなんだかわからないまま、覚えては忘れていく。

忘れてしまうことは、じつはすごくこわい。


忘れたい過去はたくさんある、なんて。
そう言える過去があること自体、本当はすごいことです。

過去をなくしてしまったら、わたしはもう、「わたし」じゃない。
そんな気がします。


人が生きるって、覚えることなんだろうなあとなんとなく思っています。
みんな無意識にそれを成し得ているし、意識してやることではないのかもしれないけれど



人生はやり直しがきかないけれど、過去がある分だけ、変わることはできるんです。
変わらない過去を抱いて、どんどん変わっていきたい。
決して過去を捨てたりはしないよ。
捨てたいとか言ったところで、きっと捨てられっこないんです。

だから、前よりもっと楽しく、もっとわくわくしていたい。させてあげたい。

まじめなことはさ、誰だって言えるよね。
ふつうに、ごくふつうに、社会で生活してれば、一般的な倫理観は誰にだって備わってると思う。


だからこそ、だよ。
どうしようもなくくだらないことに一生懸命になれるとか、
ばかみたいなことやって笑わせてくれるとか、
そういうのができる人って、わたしちょっと尊敬してしまうんです。


世間では、そういうのを「自分を捨てる」みたいに言うこともあるけど、
そういうことじゃないと思うんだよ。



やっぱり、いつだって笑っていたい。
どんなささいなことでもいいから。

大笑いしてくれる人は、みててすごく気持ちがいい。
笑顔が優しいひとも、好き。
笑わない人がいたら、笑ってほしいなって思う。


好きな人が笑っていたら、それを見ていられる自分が一番しあわせ。
きれいごとじゃなくって、純粋に。本当に。そう思う。
場合によっては。苦しくなってしまうけども。



芸人さんの技は、だからすごいなと思います。
ラーメンズと、おぎやはぎと、…w


ひさしぶりに、昔住んでいた場所を訪れた。
1歳から高校2年の冬まで、わたしが生活していた場所。16年間、過ごした場所。

父の会社の社宅だった。そんなに広くはない、小さな社宅。
その一角の棟、二階の端っこがわたしたちの場所。

いろんな家族が住んでいた。いろんな年代の人がいた。同い年の友達がいた。
どこに誰が住んでいるか、すべてわかってた。知らない人がいれば、すぐにわかった。

春には敷地いっぱいに桜が咲く。夏にはすぐそばで蝉の声。
秋の落ち葉は、そこら中を埋め尽くして、冬になればたくさんの雪だるまが並んだ。

社宅内のお祭りだってあった。焼きそば、やきとり、ヨーヨー、ビンゴ大会。
大人たちにとっては宴会で。こども心にビールの酒臭さが強烈だった。
集会所でのクリスマス会。持ち寄りのプレゼント交換。
何をもらったか、何をあげたかは忘れてしまったけれど、
一緒にいた友達、あの空間、あのにぎやかな雰囲気は忘れてない。

月に一度は、みんなで社宅を大掃除。芝刈り、ほうき、ごみ捨て場の掃除。
わたしはといえば、ただ傍観するばかりで手伝いもしなかった。
芝刈り機の巨大な音と、かられた芝の青臭い匂いは今でも鮮明なの。

はじめて自転車に乗れたのもこの場所。嬉しくって、敷地を何周したことか。
虫取りを覚えたのだってこの場所。カマキリを捕まえた。トンボの目を回して捕まえた。
モンシロチョウとモンキチョウ、見つける度に追いかけていた。
道路に落書き。縄跳びの練習。ままごとごっこ。かくれんぼに缶蹴り。

廻ってくる回覧板も、なつかしいな。

ベランダで、シートを敷いて、夏の夜を眺めてた。それが私の家の「キャンプ」だった。
柱に傷を付けたり、洗面台の鏡の自分の顔の位置で、伸びていく身長を測ってた。
幅の狭い廊下は、壁のぼりの遊び場。サルがいるぞーなんて。

台所のシンク周りが新しくなる時は、はしゃぎ回っていた。
家の中で父と兄とかくれんぼ。どこに隠れたって、すぐに見つかってしまう。
兄を最後まで見つけられなかったわたしに、兄は「透明人間になったんだ」なんて。

川の字で寝ていた。働く母に唯一甘えられる時だった。
少し遠い存在だった父が、わたしに小さな冗談を言った時の情景は今も覚えてるよ。

脱衣所のないお風呂では、カーテンをしてなんとか頑張っていたっけ。
個室を持てない間取りの中で、家具を仕切りに「私だけの空間」を必死に作ったな。


何よりあの家では、家族みんなで食卓を囲っていたの。同じ空間で、共有するものがたくさんあった。
いつだって、誰かの気配を感じていた。

わたしが、わたしとして育った場所。
思い出が多すぎる。思い出なんてものじゃない。
あの場所は幼いわたしにとっての世界だったんだ。





その場所を訪れた。
前にも一度来たから、3年ぶりくらいだろうか。
その時は、誰か新しい家族が「私の家」に住んでいたっけ。
知らない誰かが、知ってる私の家で、知らない生活を始めていた。
塗り替えられていく現実と、変わらない記憶が、その場所で交錯しているような感覚だった。



だけど。

今日見たそこは、廃墟だった。
時間が止まったみたいに。ただ建物がじっと黙って佇んでいるだけだった。

誰も住んでいなかった。だれ一人、いなかった。
カーテンのない窓から、がらんとした部屋が見える。破れたふすま、風化した木片。
入り口にはテープを貼られたポスト。長い間乗った形跡のない自転車が数台。階段にはクモの巣。
アスファルトの隙間から雑草が生えてる。ここは通り道だったのに。
芝生は草が伸びっぱなしで荒れ放題だ。小さな公園の遊具は錆び付いてる。砂場はもう見えない。


涙があふれてきた。悲しくて仕方なかった。
確かにわたしはここにいた。ここで生活していた。たくさんの記憶がその証拠なの。

時間が止まってた。人がいた形跡はある。だけど確かに「去った後」だ。
すべてから取り残されてしまったみたいに。


涙の理由はなんだろう。
大事な友達をひとりなくしたみたいな感覚。
自分の中の、何かを否定されたような感覚。
忘れられたような感覚。
相手を失うと同時に、自分さえいなくなってしまうような。
さみしい、かなしい。

3年前と同じように、誰か別の人が住んでいれば、
ちょっとセンチメンタルになって、ちょっと変な気持ちになるだけだったんだろうに。
新しい生活で更新されていっても、わたしの記憶に確信を持てていただろうに。


その場所、そこにしかないもの。うごかぬもの。
写真や記憶じゃない。そこに存在する確かな形跡。
だけど、かつてと似た様子。そこが「生きている」感覚。

とにかく、何かが失われているようなことが原因なのは確かみたい。

「現実」に「存在」することの絶対性。



建築の意味みたいなものを考えるきっかけになりそうな気がしてる。

建物はそれだけじゃどうしようもできない。人がいないと、生きていけない。
ただ静かに黙って、そこにいるような感じだった。

建築が人に似てるな、って思うのは、
朽ちていくからとか、色んな表情を見せるからとか、それだけじゃない。
きっと、記憶を持つからだ。その建築には、記憶が内包されてる。
知ってても知らなくても、見ればわかる。
違うのは、建築はそこから動けないこと。言葉を発しないこと。


世界に杭を打つようなものだもんね、建築は。
自然に対する装飾のような。





今日の体験は貴重だった。
忘れないようにしよう。とりあえず、ノートです。



今日、友達がうちにやってきました。
もう8年以上付き合ってる友達。

久しぶりにアルバムを広げ、だれこれかれこれ。あーだこーだ。
こういうのが、すごく嬉しかった。
忘れていたことを思い出したり。あーわたしこんなんだったな、って。


高校3年間、なぜか日記を書いていない。空白。
数えるくらい、それも何か重要なことが起こったときだけしか、書いていないんだ。
そのせい、というわけではないけれど、ほとんど記憶がなかった。
高校より中学の頃の方が記憶が強いの。

だけどね、今日アルバムを見返して、友達と思い出話して。
なんとなく、なんとなくだけど、思い出したよ、いろんなこと。

人は忘れていく生き物だから。
だけど、ふとしたきっかけで思い出すこともできる生き物。

そのきっかけを、今日はたくさん見つけた。嬉しかった。私の過去に出会えた。

こうやって、長く付き合ってきた友達がいること、
本当に幸せだなあと思ったよ。大切な存在。大切な時間。
ありがとう。本当にありがとう。


わたしがわたしでいられるのは、こういう人たちの存在があってこそなんだろうと思う。
こういう友達、とそして家族。


「人は支え合って生きている」なんて当たり前のように言われていることを、
どれだけの人が実感できているんだろう。言葉だけが飾られてしまっていないかな。
わたしは、最近やっと、やっとだよ、実感できるようになっているよ。

言葉は飾りじゃない。それだけは、忘れたくないよ。