“お洒落する”

ということ。








そういえば、



上京するまでは、

お洒落するということは
わたしにとってつまり、
“気張る”ことだった。




時間をかけて化粧して、
クローゼットとにらめっこ。

あれにしよう、
いや、
こっちのが…



悩ましくて、だけど
楽しくて高揚するキモチ。












今はあの頃よりもずっと
ラフで身近に感じられる。

毎日にそっと寄り添う、
そんな感覚。












そしてずっと変わらないもの。




鏡の中の自分に感じる
前向きなキモチ。

だいすきな一着に
袖を通したときのトキメキ。


まるで
恋人の仕草を見たときに
感じてしまうように、
ディテールに感じる
愛おしいキモチ。


わたしはやっぱり、
服がすきなんだというキモチ。









変わらない。




















帰省中のバスの中で、

あの頃隣にいた友だちが
今も隣にいる小さな幸せ。
















成人式前夜に。



















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ふと


言い様の無い虚無感に
襲われることがある。





アイロンもせず皺だらけの
仮縫いのシーチングを纏い
静かに立つボディ

無造作に折り重なって
壁に寄りかかるクラフト紙

昨日から敷きっぱなしの布団

その枕元には昨日脱いだままの
真っ赤なニットセーター

もう何日も触っていないミシン

ミシンの前にあるはずの椅子は
昨日家族とお茶を飲むために
隣の部屋に動かした、そのまま。












映画を観た。


感想を聞かれたけれど、
上手く表現が出来ない。

様々な、本当に様々な感情が
其々ほんの少しだけ高ぶって、
なにか大きなモノとなって
わたしの中に入ってきたのだけど、
ソレに上手に名前を付けられない。
上手に取り込むことも、出来ない。


他人はソレを“感動”と
呼ぶのかもしれないけれど、
わたしにはわからない。







映画の中のひとりの男が
言ったある台詞が
あれからずっと残っていて
頭の上の方でゆらゆらと
揺れながらついてくる。


その男の自殺という最期が
わたしは納得がいかなくて、















布団に入って

ボディとミシンを
視界に捕らえながら。



端に赤色が見える。













虚無感。



そして

名前もわからないこの感情。











なんだか、







遠い。













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綺麗な物語には大抵綺麗じゃない気持ちが隠されていたりする。純粋じゃない物語の裏には純粋な気持ちが隠れていたりする。





人間社会なんてつまるところそんなものだと思うのです。



つまりは蠢く幾多の感情とどう付き合っていくか。そしてどう表現していくか。





この表現っていうのがやっかいで、簡単じゃない。自分の中で色々なものと戦わなきゃならない。

例外もあるけど、満足のいくものを生み出すには多少に関わらず苦悩を伴う。






だけどそうしてやっと造り上げた何かが誰かに認めてもらえるとは限らない。




これは表現者にとっての賭けみたいなものなのかもしれない。要するに楽しみどころ。







わたしが言ってる表現者っていうのは、例えばファッションデザイナーだったり、画家だったり、陶芸家だったり、作曲家だったり、そういう狭義ではなくて、もっと広義。

ファッション業界に限って言うなら、デザイナーもパタンナーもマーチャンダイザーもプレスもディレクターもアドバイザーもみんな表現者。みんな自分を表現できる。





ただ、一緒に仕事をするのであれば根本にあるものは一緒じゃなきゃいけない。これもまた難しいところで。

そういう意味でわたしは画家に憧れを持ってる、孤独な画家に。





わたしが今欲しいものは、
考え抜くために必要なだけの

力と時間。
ほんの少しの孤独。





弱くていい。


その弱さの中に、
人間の愛すべき何かが。














日の暮れや 葦の花にて 子をまねく/一茶














今はひたすら、考えていたい。
温かな家族の記憶を抱いたまま、
たったひとりで。


そしてそれをどう表現するかも、
またそこから考えていればいい。










人間は考える葦である