【松下幸之助、創業者、名経営者、政治家に学ぶ】           -4ページ目

第354回【松下幸之助から学ぶ恩を忘れない】

月刊誌PHP7月号に貴重な情報が載っていた

 

 

「幸之助は晩年に、大阪の関西将棋会館の建設支援をするなど将棋界の発展に貢献し、名誉段位を授与されます」

 

 

松下幸之助さんが東京の千駄ヶ谷の将棋会館の建設の支援をしたことは、懇意にしていた大山康晴15世名人のことを書いた本に書かれていて知っていたが

 

 

関西将棋会館も松下さんが支援していたとは

 

 

支援とは恐らく寄付であろう

 

 

このことを将棋会館の関係者や将棋ファンの人はどれだけ知っているのであろうか

 

 

実は私も小学校の時に千駄ヶ谷の将棋会館に通っていたことがあるが、松下幸之助研究をするまで松下さんが支援していたことは知らなかった

 

 

ちなみに将棋は初段までいった

 

 

学生時代に議員宿舎で警備員のアルバイトをした時に将棋の相手をさせられたのが久間章生初代防衛大臣と小泉純一郎元首相の秘書さんであった

 

 

そして警備員から運よく松下政経塾出身の衆議院議員の秘書になり国会で働くことに

 

 

その時に将棋の相手をしたことが役立った

 

 

社会経験が全くないまま秘書になったので右も左も分からない

 

 

事務所は議員会館の5Fでした

 

 

困るといつも駆け込んでいたのが議員会館の3Fの327号室の小泉純一郎事務所であった

 

 

目当てはもちろん議員宿舎で将棋の相手をさせていただいた秘書さんである

 

 

「どうしたの?」といつも優しく教えてくれました(^^♪

 

 

ちなみに小泉事務所の隣が菅直人事務所でした(^_-)-☆

 

 

今思えば秘書時代に一番出入りしたのが小泉事務所と野田佳彦事務所だったと思います。

 

 

まさかこの3人が後に総理になるとは思ってもいなかったです

 

 

松下さんは茶の湯は日本の伝統文化であると、伊勢神宮の茶室、中尊寺の茶室など、全国に15もの茶室を寄贈しています

 

 

ところが茶道の先生でこのことを知っている人がほとんどいません

 

 

そう考えるとまだ知られていない松下さんの寄付や支援はどれだけあるのだろうかと思います

 

 

松下さんは新入社員にこのように述べたことがあります

 

 

「会社が今日ここにあるまでには、先輩諸氏の絶えまない努力、苦労の歴史があることを知っておきたい」

 

 

きっと総理になった3人も多くの人の協力や助けがあったのだと思います

 

 

今の自分があるのは目に見えない多くの人の恩恵があることを忘れてはならないのだと思います

 

 

※松下政経塾1期生の野田佳彦さんと

 

 

第353回【また松下幸之助の新真実】

3年前から探していた『松下幸之助全研究第5巻』(昭和57年刊)がやっと手に入り読んでみました!

 

 

40年以上前に書かれた本である

 

 

当時のことを知るにはその時に書かれた本を読むのが一番

 

 

そういった意味では新事実が多くありました

 

 

張った付箋は51ケ所。新たな発見が51ケ所以上ありました

 

 

その一つが

 

 

昭和56年の神戸ポートアイランド博覧会での松下グループの松下館

 

 

この松下館の電光掲示板がひときわ目立っていたという

 

 

なんて描かれていたか

 

 

「人類青春  地球青春 」

 

 

の文字である

 

 

なんとも松下幸之助さんらしい言葉である

 

 

この年に松下さんは『新潮45創刊号』でこのように述べています

 

 

「年よりとは『経験を積んだ青年』である、と私はかねてから考えている。この言葉はいまはじめて公にするのだが、私の信念なのである。私は今年11月で、満88歳になるが、今でも自分は青春のまっただ中にいる、と思っている」

 

 

私はこの松下さんの「生涯青春」の考えが好きである

 

 

そして実際に生涯青春を貫いたのが松下さんだと思います

 

 

第352回【松下幸之助と江崎利一(グリコ創業者)との友情】

戦前から松下幸之助さん、江崎利一氏(グリコ創業者)、鳥井信治郎氏(サントリー創業者)らが集まり懇親を深めていた

 

 

この懇親会はみんな一文なしの状態で事業を始めているので「文なし会」と呼ばれた

 

 

戦後に松下さんが生活費にも苦労した時に、お金を工面したのが江崎氏であり鳥井氏であった

 

 

松下さんが事業経営の尊敬する先輩(12歳上)であり親友と語った人が江崎利一氏です

 

 

江崎氏は昭和25年に、後継者と決めていた長男が39歳の若さで病死する

 

 

すでに次男は20代で亡くなっており、長女も嫁ぎ先で亡くなっていた

 

 

孫の勝久氏はまだ8歳

 

 

当時66歳であった江崎氏の失望、落胆ぶりはたいへんなものであったという

 

 

親戚や周囲からはもう年齢も年齢だし事業から身を引くべきだと言われる

 

 

そんな状況で身を引くべきか松下さんに相談する

 

 

このとき松下さんは精いっぱい江崎氏を励ましたという

 

 

松下さんはどのように励ましたか

 

 

「江崎さん、今さら何をいうのか。ここまで営々と築きあげたグリコは、もうあんた一人のものではない。日本のグリコだ。やりなさい。・・・・もう息子さんのことでくよくよしなさんな。よし私があんたのところの重役になろう。なんでも相談に乗ろう。あんたが死んで、あとうまくいかんようやったら、私がうちの若い者を引っぱってきて応援する。お孫さんのことは引き受けたから、あんたはいままで通り積極的にやってほしい。いや一緒にやろうじゃないですか」

 

 

江崎氏は松下さんの友情がほんとうに嬉しく。このときばかりは男泣きに泣いたという

 

 

その後、江崎氏は事業の鬼となり20数年頑張り90歳まで社長を続けます

 

 

松下さんも約束を守り、孫の勝久氏が大学を卒業すると

 

 

「はじめからグリコに入れると甘やかされるから、一人前になるまでうちで鍛えよう」と、松下電器で3年間あずかります

 

 

勝久氏は後にグリコの3代目社長に就任し、さらにグリコを発展させた

 

 

松下さんは江崎利一氏の姿から

 

 

「志を堅持してくじけず事にあたる大切さ。最後の最後まで諦めず、地道な努力を重ねていくことの大切さ」を学んだという

 

 

松下さんの「成功の要諦は、成功するまで続けるところにある」の名言が生まれた背景には

 

 

自分の経験だけでなく、江崎利一氏の諦めない姿もあったのではないかと思います