アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/06/24(月) | ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/06/24(月)

 

 

● 賛美唱:詩編30
 30:2 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。 30:3 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。 30:4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。 30:5 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。 30:6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。 30:7 平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。 30:8 主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。 30:9 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。 30:10 わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。 30:11 主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。 30:12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。 30:13 わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。

 :今週のテーマ【確かな信仰】

【聖句断章】30:2
主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。
    
@ 『あがめる』という言葉は現在ではあまり用いられなくなった用語であるよう思うが、それは原語ではどうなっているのだろう。原語のヘブライ語では「ルーム」、その意味は「高する」である。とすると、この冒頭聖句で、人間が引き上げられたことと神を高めることとの相互関連性が表現されていることになる。人間が神を崇め、高めるのは無暗に習慣的儀礼として宗教的にそうしているのではない。その原点には、自分自身の根本体験が横たわっている。それがこの詩篇で語られている。

* 【あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました】。敵とは誰か?それは此の世の支配者、悪魔とその配下の諸勢力のことである。

* 【あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました】。敵の支配からの解放はわたしの魂の死の克服である。

* 【ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる】。何故神は「ひととき」怒られたのか?それは民が悪魔に従って、その迷い道を下って行ったからである。その必然的結果としての神の義の裁きとしての死であり陰府であった。

* 【平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。 主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。 】 死の淵からの叫びである。その叫びを主は聞き届け、「ひととき」の怒りを鎮め、再び、民に御顔を向けてくださる。それが神のみ旨である。詩家は神の慈しみに生きる民に、神からの憐れみを乞い、悔い改めを切願する。≪ 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。 ≫ と。神と民との関係は永遠不変の信実な神の慈しみと憐れみに基づいている。
神は民を見捨てない。それがバビロン捕囚に遭って国を失い、民の激しい痛みを経験した民が最後のよりどころとするところであった。≪わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。≫ イスラエルは神の証しをするために神が選んでくださった民である。最後の救いの根拠はそこにある。神の選びの責任にある。それ故、詩家は≪主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。 ≫と懇願する。

* その叫ぶ祈りに対する神の答えは、【あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました】であった。神の答えは何という法外な予想もしなかった答えであろうか。神は≪わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。≫

@ 今週のテーマ【確かな信仰】の視点から
* 【確かな信仰】は死をも味方につける信念を呼び起こす信仰である 。それは一体どこから来るのか? それを期待するのは、自分自身の力ではありえない。何故なら、試みの時、すぐに絶望に囚われる民にその力は期待できないからである。その力はただ、主の驚くべき不思議の御業である。そしてそれはイスラエルはバビロン捕囚からの解放を通して知った。

* 【確かな信仰】と裏腹に、市民的人間の通常の反応としての信仰は外面的祝福から判する。日本の八百万の神々に求める、家内安全、商売繫盛、五穀豊穣や、キリスト教世界においても16世紀の宗教改革者ルターが批判した「栄光の神学」はみなその繁栄こそ神の祝福だと説いていた。それらはみな自分自身の判断において良い事を神の祝福ととられ、その逆に不幸な経験を神の呪いと取っている。それは悪魔に洗脳され堕落した此の世の宗教である。

* それでは確かな信仰は得られない。状況次第で直ぐに変わってしまう浮草のような信心でしかない。【確かな信仰】は嵐の只中でも動じない神との信頼関係の中にある。それをルターは「十字架の神学」と呼んだ。十字架という最悪の事態においても神への信頼をもって自分自身の魂お神に委ねて安心を得ている信仰である。そこではもはや外面の嵐は神との関係を損なわない。むしろそれを契機にさらに信仰が確かなものとされる。

💕フランシスコは死の間際に『太陽の賛歌』を書いた。その死を前にして、彼はこの詩をこう締め括っている。【生きている者は皆一度は死ぬ。罪のうちに死ぬ者は災い!御心に生きる者は幸い! 第二の死がその人を損なうことはない。とこしえに主をたたえ 主に感謝しよう!へりくだって 主に仕えよう!】(完)。私たちもフランシスコと共に、また、詩篇30の詩家と共に、神の慈しみと憐れみに依り頼む者として、感謝と讃美をもって主の御前に出、主に仕えよう。

  😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄😄