アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/06/25(火) | ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/06/25(火)

 

● 第一日課:哀歌3:22-33
3:22 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。 3:23 それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。 3:24 主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。 3:25 主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。 3:26 主の救いを黙して待てば、幸いを得る。 3:27 若いときに軛を負った人は、幸いを得る。 3:28 軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。 3:29 塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。 3:30 打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。 3:31 主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。 3:32 主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。 3:33 人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。

:今週のテーマ【確かな信仰】

【聖句断章】3:22
主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
    
@ 【慈しみ】 と【憐れみ】 : 神の恵みに生きる者の恵みの公準 として、先祖伝来の知恵として語り伝えられた規律だった。だがそれは、それまでは単なる伝聞でしかなかったが、エルサレムの滅亡を経験することを通して、その実質を初めて体験するイスラエルであった。

* 主の恵みは、いついかなる時にも不変。たとえ、エルサレムが廃墟になり、人々が惨殺され、また主だった人々は捕囚に連行された時にも。否、それを景気としてその真実(信実)がイスラエルの一人ひとりの前に明らかになって行った。エレミヤ哀歌はエルサレムの滅亡の時の様を描く。その中での冒頭の聖句断章である。≪主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。 ≫ その意味をイスラエルはその時にこそ味わえとエレミヤはイスラエルに対して訴えている。

* その永遠不変の【慈しみと憐れみ】 が今日のテキストのテーマである。
≪ 軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。 塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。 打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。 主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。 主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。 ≫ 【黙して独り座っている】ことや【打つ者に頬を向ける】ことは、それしか出来ない状況を暗示している。「座して死を待つことは出来ない」との窮地に追い込まれたことの表現としてあるが、エルサレムの破滅を経験したイスラエルの経験はそれを超えて、多くの人々が座して死を迎えた。そのような経験を経て集合的意識としてのイスラエル共同体が学んだこととして、≪神の為さる事は時に適って素晴らしい≫との聖書のみことばが真理であると捉えるなら、それは全てを逆転させる臨界点となる。【主の慈しみは深く、懲らしめてもまた憐れんでくださる】。イスラエルの信仰の基盤としての神の恵みの絶対性が確立した瞬間である。

@ 永遠不変の神の【慈しみと憐れみ】が、 【確かな信仰】の根拠である。【確かな信仰】の基盤は私自身にはない。わたしの努力、信心の力などでは一切ない。ただ、主の限りない【慈しみと憐れみ】のみがその根拠であり基盤であり土台の岩である。≪岩の上に家を建てた者は幸い!その人は洪水が来ても倒れることはない≫。 そこを間違え転倒した考えに陥って自分自身の力を頼みとする者は滅びる。自分自身はそれほど自立的ではなく、悪魔社会の中で洗脳された社会的自己だから。だから多くの人は自分自身が決めると言いながら、実際は社会の同調圧力に屈している。

💕 主の永遠不変の慈しみと憐れみに信頼する者は幸い!その人は死の淵から立ち上がり、イエス・キリストと共に蘇る。

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