アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/05/30 (木) | ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/05/30 (木)💖💓💛💖🌈

 

● 第二日課:2コリント4:5-12
4:5 しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。 4:6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。 4:7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。 4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。 4:12 こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。

:今週のテーマ【信実の神】

【聖句断章】4:5
しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。
    
@ 私たちは【信実の神】を宣べ伝えるのであり、自分自身を吹聴するような働きで空を打つようなことはしない。何を、誰を、宣べ伝えるのか? それがパウロにとって至高唯一の問題だった。その答えに神の務めの全てが掛っている。パウロはそれを一刀両断に【主なるキリスト・イエス】と言う。そしてそれこそが【信実の神】の業であった。神は信実を貫き、「イエス」を「キリスト」として遣わし、あらゆる苦難の後に、万物の王なる主へと上げられた神である。

* 神はご自身の信実のために、世界を創造し、それを保持し、それを悪から救い出された。宇宙の出来事全ては神の信実の為せる業である。宇宙は神の信実が樹立する秩序が満ちている場である。栄光とはその神の信実の顕現であり、そしてそれは【キリスト・イエス】という御名である。≪もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。≫ これは【信実の神】が「わたしの愛する子」と呼んで共同統治される【キリスト・イエス】という御名の栄光である。天地はイエス・キリストの御名という押印が押してある【信実の神】の顕現の場である。


@ 結局我々は小さな自分自身を顕彰する働きを為そうとしているのか、それとも大きな信実の神を証ししようとしているのか、が問われているのだと、それがパウロの確信だった。私たちの人生の生涯テーマもパウロと同様にまた、信実の神の証しである。わたしもパウロに完全同意してアーメンと言う。

* ≪「闇の中から光が照りいでよ」と仰せになった神≫を宣べ伝える。
* ≪キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにする≫ために働く。
*  神はそのためにこそ≪わたしたちの心を照して下さった≫のだ。

💓 わたし自身の栄光か?神に栄光を帰すことか? その、あれかこれかが私たちの信仰の分かれ目となる。神の子としての光の子としての宣教か、それとも自分自身の闇を引きずった「宣教」か? 人間の知恵か、神の知恵か? 人間の知恵は屁理屈であり、その作り話は限りなく続く。だが、神の知恵は単純である。オッカムのカミソリではないが、単純なほど真理に近い。即ち、神に近い。

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