アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/05/31(金) | ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/05/31(金)💖💓💛💖🌈


● 福音書日課:マルコ2:23-3:6
2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」 3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

:今週のテーマ【信実の神】

【聖句断章】2:23
ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。


@ 安息日遵守の問題は食事規定と共にユダヤ人(ユダヤ教)を他の人々と公然と分ける標しである(もうひとつの重要な標しである割礼は目に見えないところの問題だが)。それはちょうど今日のプランデミックでワクチン接種の問題を思い出させる。人々を打った人と打ってない人に一目瞭然、判然と分ける。

* その問題でイエス様と弟子たちの取った行動がその標しに反していることを猛然と非難したのが律法学者/ファリサイ人であった。そうして人々の批判を抑え、黙らせる社会が定着していった。

* èそれに対しイエス様は「怒りを含んで」【この訳語については下記参照】)彼らを攻撃された。「怒り」は悪魔に対抗する神の人にとってとても重要なポイントである。イエス様は決して黙って彼らに従われなかった。公然と彼らを批判し始められた。そのことが彼ら支配者の琴線に触れて、そのことが彼らがイエス様を殺そうと図り始めたきっかけとなった。

* イエス様がその際に材料とした根拠はダビデたちが取った歴史的事実の提示だった。歴史を学ぶことの重要性が分かる。特にそれが聖書に適用された場合、聖書の歴史をあまりよく知らない一般の人々は聖書が彼らを守る盾として根本的重要であるにもかかわらず、それを知らないで、というか、実際は律法学者やファリサイ人たちの権威をもって知らされないまま、彼らの言い分を聖書の真理として受け入れてきたのが実情である。だから、聖書をよく学び、良く知ることがとても重要である。

* 聖書は或る意味、隠されることのない歴史の書である。それは決して神話や伝説の物語ではない。支配者たちが隠そうとしてきた真の歴史をしっかりと聖書流に隠して伝える歴史書と言って過言ではない。聖書の三部構成のはまず始めはトーラー(モーセの律法)で、それは父祖の歴史を根幹として形成されている。つまり歴史が神の言である聖書の全ての根幹である。三部構成の第二が「預言書」で、これも民の苦難の歴史に寄り添った預言者の残した言葉集である。第三に「その他」として、各種の格言集である「知恵」によって成り立っている。だから歴史を学ぶことが聖書を学ぶ時に一番大切なポイントであり、イエス様はそのことの重要性を今回の安息日問題でも指し示されたが、福音書の最後で、復活のイエス様は弟子たちに「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」とイエス様の宣教の総括的言葉として語られている。

@ 聖書の翻訳には種々あって、その例として、たまたまわたしが誤って、以前の礼拝で用いられた訳である口語訳聖書を選んでしまったことに気づいて、今の礼拝での公的聖書訳である新共同訳に訂正したところ、両者の違いがよく分かる箇所に出くわした。それは3:5の節であった。口語訳では ≪イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。≫ であるが、新共同訳 ≪そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。≫である。 訳によってイメージが(非常に)変わる。だから相応しい訳を選ぶ必要がある。この節ではわたしは口語訳のほうを選ぶ。イエス様の悪に対する攻撃性がより表されている。

* 良い聖書解釈をとおして人は【信実の神】の言を受け止めることが出来る。聖書の訳次第で正反対にさえなる現実の中に生きている。聖なるもの以上に悪魔の利用にとっておいしいターゲットはない。それが此の世である。だから、何事につけ、何を選ぶかがとても大切であるが、特に聖書の場合は正しい解釈と誤った解釈の差は天地の逆転さえ起こす。正統派教会とグノーシス派「教会」の解釈は同じ聖書を用いて真反対になってくる。彼らはさらに聖書の翻訳さえ自分の都合の良い翻訳本を捏造さえしくる。

 

* その代理者が今日のテキストに登場するファリサイ人や律法学者に代表される「学者」「権威者」たちであり、彼らは将来のファリサイ人派ユダヤ教の権威となる。

💓 だが、それに対して、神の霊は強力に神の子らを助けるために聖霊を下された。その【降下】と共に【神を主として愛する者】が【誕生】した。神を愛する光の子である神の子らは悪魔を憎み、悪魔への攻撃を露わにする。その力の根幹は聖書である。聖書をしっかりと学んでゆこう。そのためにわたしの助力が役立てば幸いである。

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