アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/02/06(火) | ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/02/06(火)💖💓💛💖🌈


● 第一日課:列王下2:1-12
2:1 主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである。エリヤはエリシャを連れてギルガルを出た。 2:2 エリヤはエリシャに、「主はわたしをベテルにまでお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はベテルに下って行った。 2:3 ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのもとに出て来て、「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」と問うと、エリシャは、「わたしも知っています。黙っていてください」と答えた。 2:4 エリヤは、「エリシャよ、主はわたしをエリコへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、二人はエリコに来た。 2:5 エリコの預言者の仲間たちがエリシャに近づいて、「主が今日、あなたの主人をあなたから取り去ろうとなさっているのを知っていますか」と問うと、エリシャは、「わたしも知っています。黙っていてください」と答えた。 2:6 エリヤはエリシャに、「主はわたしをヨルダンへお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と言った。しかしエリシャは、「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答えたので、彼らは二人で出かけて行った。 2:7 預言者の仲間五十人もついて行った。彼らは、ヨルダンのほとりに立ち止まったエリヤとエリシャを前にして、遠く離れて立ち止まった。 2:8 エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った。 2:9 渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。」エリシャは、「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と言った。 2:10 エリヤは言った。「あなたはむずかしい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。」 2:11 彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。 2:12 エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。

:今週のテーマ【変容:神と人との共住】

【聖句断章】2:1
主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられたときのことである。エリヤはエリシャを連れてギルガルを出た。
    
@ 「ギルガル」(ウィキペディアより)【イスラエル人がヨルダン川渡渉後に最初にイスラエル人の軍事的根拠となった地。ヨルダン川とエリコの中間地点にあったと言われる。イスラエル人はギルガルにヨルダン川渡渉の記念として、12個の石を立てた。またヨシュアはここで新しい世代の者たちに割礼を行った。また、カナンで最初の過越のいけにえをささげた。翌日マナがやんだ。そして、これよりカナン征服の拠点になった。サムエルは毎年、ベテル、ギルガル、ミツパを巡回した。サウル王はギルガルで王位を授与された。ユダ族の代表者はアブシャロムの死後にダビデを歓迎するためにギルガルにやってきた。エリヤ、エリシャの時代には預言者の学校が建てられていた。エリヤは昇天前にギルガルを出てベテルに下っていった。】ということで、 エリヤとエリシャは記念すべき地に建てられた預言者学校の師と弟子だったということになる。そのエリヤが死期を悟って、預言者学校を去って行く。そのことを察知した弟子のエリシャは師の後を付いてゆく。

エリヤの地上の生の最期 :
* エリヤはイスラエルのために異教の神々に対して独り敢然と戦い、そしてその最期を迎えようとしている。どんな英雄もメシアも、人間はいつかは死ぬ。しかしその死に方は様々である。特に神の預言者は自分自身の死期を知っていたにちがいない。霊的人間になればなるほど自分の生涯の最後を悟るものなのだろう。わたしの母は市井の人だが、90歳になるまで糖尿を抱えた母は三年間私たちと一緒に生活し、最晩年、死の数週間前、ルーテル教会とカトリック教会が宗教改革五百周年を記念して長崎天主堂で記念礼拝を行った時、ぜひ一緒に参加したいと自ら申し出て、費用も全額、私たち夫婦の分も負担して、二泊三日の長崎五島列島の旅をした。90歳でつい先ごろ大腿骨骨折から回復したばかりとは思えないほど元気に私たちに同行した。その旅から帰ってから介護の妻に言ったという。自分はもうしぬかもしれない、と。そして数日して敗血症で亡くなった。母は浄土真宗の熱心な門徒として生まれ育ったが、私たちと暮らすことを機に、キリスト教に改宗してくれた。親鸞聖人の他力本願を旨として、元来霊的なセンスを持った人だとわたしは母のことを思っている。というわけで、人間は霊的に浄化聖化されれば自分自身の死期を悟るのが自然の成り行きだとその時強く感じさせていただいた。今日の個所では当然、エリヤが死期を悟ってその行く末を考慮した死出の旅路に出かけたのだと理解する。その旅路にエリヤの死を予感した弟子は率先して最後まで従った。

* エリヤはエリシャの自発的行為を良しとして従うことを許した。エリヤの生涯は劇的な生涯だった。イスラエルを偶像宗教の堕落から守るために命を賭して強大な権威権力と戦ってきた。そしてその最期が来たことを悟る。

* 昨日の賛美頌詩篇50篇に「御前を火が焼き尽くして行き/御もとには嵐が吹き荒れている。 」と、裁きの時に火と嵐は付いて描かれる。その裁きとはノアの大洪水の裁きを彷彿とさせる。ノアの時の大洪水は単なる嵐だけではなく火も係っている。それは火山の爆発を暗示している。アトランティスが滅亡したのはそのような大地震と火山の爆発による津波によったと考えている者も大勢いる。世界の全てを飲み込んで残されたものはほとんど奇跡的だった。そのような大洪水は悪の所業に対する神の裁きとして理解された。それ以来、裁きの描写に火と嵐のセットが登場する。エリヤの時代も国の堕落が極みまで達し、そのような裁きの時だった。だからエリヤが相手とした対決の出来事には嵐と火が常に付随している。そして最後の最後に、その火は彼を天に上げる火の戦車となった天まで凱旋した。それは神の裁きの栄光面としての火である。

* 人は誰もみな、一度は死ぬ。と、アッシジのフランシスコスは全被造物の創造賛歌の終わりに歌い、その兄弟なる死が彼を死へと迎える時、その死を神への感謝と賛美の機会として歌っている。人は誰もみな一度は死ぬ。わたしが死を初めて具体的に意識したのは、癌の宣告を受け、その標準治療を断った時だった。わたしの眼前にはどのような死に方があるのか? それを考えさせられたと同時に、それは人間の生とは何か?ということであった。一度は必ず死ぬ運命を負った人間の生とは何で、それ故、どのようにその生を全うすべきかということについて。それ以来、人間の生き方、死に方に関心を抱くようになった。その一環として、最近心に留まったことがある。それはスローライフという術語であった。この語はイタリア式スローフードとスローライフという概念を或るイタリア人が20世紀末頃提唱した概念だった。それは現在世界的運動へと発展しているが、イタリア人の慣習となっているスローライフが当時の世界を風靡したファーストフードとは対照的な食べ方とその背景にある生き方であることを意識したその方が提唱し始めた運動である。

* わたしは死に方も同様であると思った。そしてそれは同時に生き方のスローネスと相対していると思った。エリヤが弟子エリシャとの死出の別れの旅をゆっくりと体験している様が目に浮かぶ。彼らは二人きりで、ゆったりとした思い出の旅をしている。ギルガルを出て、ベテルへ、ベテルを出てエリコへ、エリコからヨルダン川へと、それぞれ思いで深い場所である。そしてその過程で弟子は師の本当の霊的賜物を受け継いでゆく機会を与えられた。それは今週のテーマである【変容:神と人との共住】への備えだった。人間はその身体の全てをもって肉から霊へと変容する。それはゆっくりと神のペースに合わせたプロセスである。聖書でエリヤと義人エノクとナタナエルの三人だけが生きながら天に上ったとされている。生きながら死を迎えるゆったりとした生き方。私たちの生はいつか死ぬ時が来るのだが、その時までゆったりと生きれるといいなと誰しも思う。わたしが現代医療を拒否して残りの生をゆったりと生きる力~それが真の免疫力だと思うのだが~、その治癒力、癒しの力を受ける身体を生きることを具体的に模索する先に見えるのは、スローライフとしての生活である。 現代医療によって手術して簡単に回復しただけなら、そのような思いは起こらなかったであろう。単に身体的に回復すればいいものではない。人間の生き方と死に方が真剣に問われる機会として今回のハプニングが神から与えられたのだと思う。偶然は何一つない。全ては神の導き、計らいである。神が私たちに与えられている本来的生き方は神との共住の生き方である。エリヤの天への火の車での凱旋は、生きながらにして天が近づくような生き方の比喩である。ゆったりとした生き方に転換するなら癌は消滅すると説いた安保徹先生は不自然な死を迎えられた。現代医薬複合体に真正面から対峙する学者はよくそのような死に方をする。先生は現代人の生活スタイルを息を凝らした頑張りから、ミトコンドリアが活動できるゆったりとした生活へと転換すれば、体温が上がり、免疫力が強められ、癌はおのずと消滅することをしっかりと提唱されている。わたしの導きの師でもある。そのような自律神経の副交感神経を大切にする生き方の先にあるのは確かな死に方である。一般の人々に愛された先生の影響力を封じようとした勢力の悪しき企てを強く感じる。

💓    エリヤは今週の「主の変容主日」の福音書日課で、モーセと共にイエス様と一緒に神の栄光の顕現を演出する場面に登場する。生きるにしても死ぬにしても主が共におられ、私たちの味方であるなら、私たちはゆったりとした人間性に叶う生き方を全うできる。そのような生き方を求めよう。

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