アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/02/05(月) | ブログ 太陽と共に始めよ

💓💛💖 アメブロ「太陽と共に始めよ」2024/02/05(月)💖💓💛💖🌈

● 賛美唱:詩編50:1-6
50:1 【賛歌。アサフの詩。】神々の神、主は、御言葉を発し/日の出るところから日の入るところまで/地を呼び集められる。 50:2 麗しさの極みシオンから、神は顕現される。 50:3 わたしたちの神は来られる/黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き/御もとには嵐が吹き荒れている。 50:4 神は御自分の民を裁くために/上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。 50:5 「わたしの前に集めよ/わたしの慈しみに生きる者を/いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」 50:6 天は神の正しいことを告げ知らせる。神は御自ら裁きを行われる。〔セラ

:今週のテーマ【変容:神と人との共住】

【聖句断章】50:1
神々の神、主は、御言葉を発し/日の出るところから日の入るところまで/地を呼び集められる。
    
@ 今週の聖書テキストは「主の変容主日」のテキストで、今週のテーマを【変容:神と人との共住】といたしました。そしてそれは今日の賛美頌に相応しく表現されていると思います。変容は人間が真の神と共に歩む時、人間を神の形に変えるプロセスですから、それは栄光から栄光へと変化変容してゆきます。今週一週間特に、この人間性の醍醐味を共に味わいましょう。

* 賛美頌冒頭の聖句は全能の神の顕現の極み表現である。遍く「地を呼び集める」神が顕示されることで変容(trans-figuration)が起こる。

* 裁きの時に「・・・地に呼びかけられる。」その地は神との契約の民の生きる地である。その契約の民を呼び集めよと、主は言われる。人間とは神と契約を交わした存在である。そこで初めて、肉なる存在から霊なる存在へと進化変容できる。でなければ、人間が当然のこととして、自然に進化することは自明ではない。しかもその進化は霊的進化としての変容である。いわゆる進化論は人間を神から引き離す理論であって、人間を神との共住に向かわせる教えとは真反対である。そこには近世以降の人類史において神への反逆精神が起動している鵺的混沌があり、今日の堕落の極みへと至っている。人類は誰の奴隷となったのか? パウロは言う。人間は神のドーロスか悪魔のドーロスか、いずれかであると。悪魔の奴隷となるなら、人間にはもはや自由はない。逆に神の僕となるなら、人間には自由と喜びが漲る。人間は本来そのような存在として、神と自由への契約を結んだ存在である。
 
 : 「わたしの前に集めよ」:神と契約を結ぶ者は神の民としての人類である。その人間は神の前の人間である。「神の前」coram deo に 生きる人間である。人間の命は神の前にある。その人間を主は 「わたしの慈しみに生きる者」と呼ばれる。人間とは「神の慈しみと憐れみ」即ち、神の愛から生きる存在である。その信仰と信頼があってこそ、人間はより良く生き得る。「いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者」 : 契約を結ぶ者はその責任を主に対して負う者となる。そしてそれと同時に主の慈しみの中を生きる権利を持つ。その契約は命を賭しての契約である。古来の「いけにえ生贄」概念は重要であり、今日でもその意義は全く失われていない。肉なる人間はその肉の故にこそ、肉を捧げることができる存在として造られている。それは神との契約に命を賭すことができるためである。そうしてこそ存在の意義をあらしめることができる存在である。命を懸けない羊は黙々と奴隷市場に向かわせられるだけである。人間はたえず目覚めていかなければ存在意義を失うものである。
 
 💓 神の民よ目覚めよ。神の国は来たのだ。悔い改めて福音を信じて立ち上がろう。
 
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