さよなら、アマゾンのばあちゃん。
アマゾンから番長の友人(日本人移住者)が来日した。
ここ数年は毎年アマゾンへ取材に行っとるが、
いつもこの友人から世話になっとるので、
番長はご恩返しを兼ねて九州旅行に連れて行った。
友人を車の助手席に乗せて走っているときに
「アマゾンの皆さんは元気にされとうですか?」
と尋ねた。
そしたら、
「ああ、皆、元気だよ。ただ江藤シナ子さんだけ交通事故で亡くなった」
とポツリと答えた。
「え!?」
番長は運転中にもかかわらず、思わず友人の顔を覗き込んだ。
シナ子さんは、2007年にアマゾン川上流域の日本人村に行った際、
取材させてもらったおばあちゃんや。
番長と同じ福岡県出身の女性で、顔をしわくちゃにしながら
微笑みかける姿が印象的やった。
「あんたは、そんなに太ってたら長生きできんよ。
ほれ、この薬草を持って帰りなされ。これは私の家の庭で育てとる薬草じゃ」
そう言って、どくだみ草をたくさんくれた。
灼熱の太陽の下、シナ子さんは古い木造屋でご主人と暮らしとった。
アマゾンへ移住して50余年、苦労して、苦労して生きてきたが、
最後まで家庭は裕福になれんやった――。
友人の話によれば今から3ヶ月前、
シナ子さんは日本人会の会費を払いに行くため
家の前にある州道を徒歩で渡っていた。
その時、猛スピードで走ってきたパトカーに跳ね飛ばされたそうである。
83年の人生やった。
番長は友人からこの話を聞いて、悲しい気持ちにはなったばってん、
その反面、「生きとるうちに取材ができてよかった」とも思った。
シナ子さんの人生は、サンパウロ新聞で紹介したけど、
日本で出版した本『100年 ブラジルへ渡った100人の女性の物語』(フォイル)
にも載せた。
シナ子さんの生きた証を文章に遺せた。
遠い南米で暮らしておる日本移民の生き様を
母国日本に伝える。
これが番長に与えられた使命やから――。
伯国の大地に生きる日本女性物語④
今日も自分の元気に感謝
エフィジェニオ・デ・サーレス 草分けの江藤シナ子さん
マナウス市から40キロほど離れた所にエフィジェニオ・デ・サーレス日本移住地
(以下、エ・サーレス)がある。
ここは1958年から61年にかけて日本移民が入植し、
80年代には85家族の日系家族を数え、一大日系移住地を形成していた。
だが、それ以降はマナウス市への転出や日本へ帰国する移住者が相次ぎ、
現在は約30家族を残すのみとなった。
その移住地の第一次移民として1958年11月10日に入植し、
いまも同地で養鶏を営んでいるのが江藤シナ子さん(80歳、福岡県出身)。
記者がシナ子さん宅を訪れた日、彼女は鶏舎から自宅玄関まで小走りできて
「遠いところをよう来なさった」と溌剌とした笑顔を見せてくれた。
エ・サーレス移住地のなかで、第一次入植当時から夫婦揃って健在なのは、
今となっては江藤てらし(81歳、同)、シナ子夫妻を除いて他にはいない。
「わたしゃ、まだ80歳になった気がせんもの」という彼女の生活は、
毎朝鶏舎に出掛けて卵を採集することからはじまる。
昼ごろまで2万3千羽ほどいる鶏の世話をして一旦自宅に戻り、
昼食後からまた鶏舎に出掛けて卵を採るといった作業を続ける。
一日たりとも休んだことはない。
「だから元気でいられるのよ」とシナ子さん。
記者の前で飛んだり跳ねたりして見せ、若さをアピール。
そんな彼女の健康の秘訣は自宅の冷蔵庫の中に隠されていた。
キンキンに冷やしてあった2リットル入りのペットボトル、
中身は庭の片隅で育てているどくだみ草と肝臓を強くする
ボールド(薬草)を混ぜたお茶だった。
「このお茶を飲んでいたら病気にはなりませんよ」
と自信たっぷりに話していた。
そんなシナ子さんがエ・サーレス移住地に入植した当時は、
アマゾン河沿いに面していない内地だったので、特に生活水に苦労していた。
かつて入植者が共同で利用していた唯一の井戸と小川は、
シナ子さん宅から約700メートル離れた低地にあったので、
彼女は天秤棒に空き缶をぶら下げて、一日数回、自宅と井戸を往復した。
雨が降れば盥(たらい)やタンクに水を溜めることも出来たが、
雨が少ない乾季は辛い。
彼女は労働者が帰った後、
真っ暗な闇の中を懐中電灯の灯りを頼りに井戸まで水浴びに行っていた。
そんな生活が入植から数年続いたが、
移住地に石川県寄贈のジープが届いたことで
各日系農家に水を配給することが可能となった。
「ほかの日本移住地に比べれば、エ・サーレスは恵まれていたほう。
だから人一倍頑張らないと罰が当たる」と話すシナ子さんは
入植してから50年間、ほとんど出掛けることもなく働き通した。
夫は、過去に西部アマゾン日伯協会会長、エ・サーレス農協組合長、
同自治会長を歴任した人だったため、自宅農場に帰れない日も多かった。
その時はシナ子さんが農場を守り抜き、家庭の大黒柱となって
コロニアに尽力していた夫を支えた。
「わたしゃ独り言が好きでね。鶏舎で作業している時に
『シナ子さんは卵採りが出来るだけでも感謝せなね』と自分に言って、
『はい、ありがとね』と自分で答えているのよ」と今日も働いている。
(吉永拓哉記者) サンパウロ新聞2007年掲載
アマゾン開拓に人生を懸けた江藤シナ子さんのご冥福を
心からお祈りする。
=byブラジル番長=
「危険」な仲間たちin東京
番長の「びびり」具合にもほとほと困ったもんじゃ。
いざ東京へ出発する日、不吉な夢ば見た。
その夢とは、大地震が起きて津波が発生するというものやった。
番長たちは山の頂上まで逃げてホッと一息つくんやけど、
なんと襲ってきた津波は山よりも高く、我々ば飲み込もうとするではないか。
「もうだめじゃ~」
そう覚悟を決めたところで、目が覚めた。
ベッドから起き上がると、寝汗をびっしょりとかいておった。
その瞬間、窓の外から不吉な音が聞こえた…
ピーポーピーポー
「き救急車のサイレンや…。何か嫌な予感がするばい…」
目が覚めたのは朝の8時やった。
番長は10時半発の飛行機で、羽田に飛ばないかん。
「これは飛行機が落っこちるぞ。きっと神様のお告げばい!」
朝から番長は家族たちに「やっぱ新幹線で東京さい行くけんな!」
と話よった。
すると、「おまえシャバイ(ださい)ったい!」とわが妻が怒る。
「いや、だって不吉な夢ば見たけん…」
「そんなこと知るか。もう飛行機代ば払ったやろ。もったいなかろうが!」
そう怒鳴られ、番長は無理やり飛行機に乗せられるハメになった。
機内では、常時びくびくしておった。
ちょっとでも飛行機が揺れると「落っこちるばい!」と、
座席の肘置きのところば両手でがっしりとつかんで、身構えておった。
ばってん…
結局、飛行機は無事に羽田に到着。
「なあんだ、単なる思い過ごしやったか。えがった、えがった」と、
空港の飲食コーナーでビッグマックを2つ食って、新宿へ向かった――。
その翌日、渋谷区にある青山ブックセンター本店で
石黒謙吾さんとトークショーを催し、
番長の「びびり人生」を皆さんに暴露させていただいた。
参加した方々からドッと笑い声が出よった。
「よくもまあ、こんな肝っ玉の小さな男が、
暴走族をやったり、アマゾンの奥地で生活できるなあ」
と、参加したある人の声。
逆に言えば、「肝っ玉が小さくても、やる気があれば何でもできる」
ということばい。
そういった番長の些細なメッセージを参加した方々にお伝えした。
そいて、次の日。
新宿のとある居酒屋に、危険な仲間たちが集結した。
『第2回海外アウトローたちの集い』に出席したのは、
こんな方々。
前列左 ブラジル番長
2列右 倉智隆昌番長
2列左 嵐よういち番長
3列 丸山ゴンザレス番長
彼ら仲間たちは、過去に海外暮らしを経験しており、
スリリングな危険地帯を潜り抜けてきた男たちや。
ばってん、彼らも番長のように「内心びびり」が多いので、
生き様がじつに面白か。
だけん、仲間たちの本はじつに共感できるし、読んどって楽しか。
アウトロー作家のカリスマ・草下さんのベストセラー書籍。
世界のあらゆるドラッグ事情をレポートしたこの書籍は、
日本のヤンチャな若者に衝撃を与えた。
バックパッカーなら誰でも知っている嵐さんの名作。
この本が、海外アウトロー旅行記の火付け役となった。
ぞくぞくする続編も続々出しておる。
丸山さんの処女作。
「海外でこれはやっちゃあいかんだろ」という事を
平気でやってのけた丸山さんの痛快アジア旅行記。
この本の表紙がまた傑作じゃ。
あと一人、倉智隆昌くんはまだ己の書籍を出版しとらんが、
彼は21歳で単独ブラジルへ渡り、
サンパウロにあるキャバレーの店長をつとめ、
そのあと現地で出版社を立ち上げている将来有望な男。現在27歳。
彼もいずれは波乱に満ちた海外体験記を世に出すことやろう。
こういった楽しい仲間たちと共に、
これから面白い海外イベントをあちこちでやっていく予定。
ばってん、やっぱ何をやるにしても東京へ出らんといかんなあ。
次回からは新幹線で上京させていただきやす…。
=byブラジル番長=
(元)ヤンキー小学生、全国紙の表紙に!
前回の日記では大変お騒がせしやした。
相談に乗ってくれた読者の皆さん、まじでオブリガード。
皆さんのご意見を参考に番長の足りないオツムで考え抜いた結果、
これからは「カレンダー通りの人生」を歩むことに決めた。
用事が入ったらカレンダーに書き込む。
そいて、同じ時間帯に用事が重なってしまえば、
先にカレンダーに書き込んだほうを最優先する。
よっぽどの緊急事態が発生しない限り、この方針は絶対に変えん。
自分に無理はしない。
睡眠はしっかりと取る。
こうやって、うまい具合に平成の世を渡り歩こうと思うとります。
さて、話はコロッと変わるばってん
先月、番長と一緒に東京を旅したシュンヤ君(13歳ヤンキー)の珍道中記が、
このほど『実話ナックルズSPECIAL』に掲載されよった。
なんと今回のナックルズSPECIALの表紙は、
シュンヤ君ご本人の似顔絵でござる。
プロのイラストレーターが描いてくれとるとでござる。
裏山鹿でござる…。
番長だって表紙を飾ったことがないとに……。
今回のシュンヤ君のテーマは
『ヤンキーの夏休みin東京旅行』。
九州の片田舎でツッパッておる13歳のヤンキー少年の目には、
メガシティ「東京」がどのように映ったのか。
世のヤンキー兄ちゃんから学校教師まで、かなり興味をそそる
内容となっておりやす。
さらに、シュンヤ君は東京滞在中、
ヤンキー界の重鎮・岩橋健一郎さん(ジャーナリスト)、
お笑い芸人の若月徹さん(吉本興業)のお2人を相手に対談した。
その模様もナックルズSPECIALに掲載しとるばい。
シュンヤ君は、見た目はド・ヤンキーやけど、
中身はかなりしっかりとした男やなと感心しとる。
渋谷駅のキヨスクに立ち寄った際、番長たちの隣にいたサラリーマンが
ポロッと100円玉を下に落とした。
100円玉はそのまま地面を転がって、ゴミ箱の下に入ってしまった。
本人はそれに気付いてなかった。
そしたら、シュンヤ君が何も言わずにゴミ箱の下に手を突っ込んで、
100円玉をつかみ取り、「ほらよ」とサラリーマンにわたしとった。
サラリーマンは苦笑いしながら、頭を下げとった。
そんなシュンヤ君の意外な一面を見てしまった番長は
「この子はいずれ立派な大人になる」と確信したばい。
ほんのささいな事やけど、
なかなかこんな親切な行為は、真似できんって。
ばってんシュンヤ君は、見た目がヤンキーなばっかりに
学校の先生たちから「教室への立ち入り」ば禁止されとうとぜ。
毎日、校内の印刷室に閉じ込められとうとぜ。
こんな心優しい子に対して、学校側は本当に酷いよ。
彼のいいところは評価せず、悪い一面だけを取り上げる。
シュンヤ君と浅草の浅草寺に行ったら、
「その前のナックルズを見た!」という若者たちが駆け寄ってきた。
そいて雷門の前でシュンヤ君を囲んで、記念撮影。
今やシュンヤ君は全国の人気者である。
「いろいろあるだろうけど、頑張れよ!」
若者たちがシュンヤ君を励ましとった。
若干13歳にして、全国紙の表紙とトップ記事に躍り出たシュンヤ君。
彼のヤンキー人生はある意味、間違っちゃあおらん。
まじめに勉強をしている世のお子さんたちもそりゃ偉いが、
そればかりでは絵にならん。ただの「普通の人」は、ネタにはならんばい。
ヤンキーブームが去り、ツッパリ兄ちゃんがいなくなった今だからこそ、
シュンヤ君の生き方が目立つ。
だけん元ヤンキーたちが応援してくれとる。
1万人に1人の男になれ、シュンヤ君。
頑張れシュンヤ君!
=byブラジル番長=







