資本主義の精神 | 田窪一世 独白ノート

田窪一世 独白ノート

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「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」通称「プロ倫」近代社会学の創始者と言われるマックス・ウェーバーの著書です。宗教が経済に大きな影響を及ぼしているということを分析しました。フォルクスワーゲン社が世界一の販売台数を記録するなど経済が好調なドイツ。対して財政危機から抜け出せないギリシャ。その原因とは。

 

ドイツがまだプロイセンと呼ばれていた時代の社会学者マックス・ウェーバー(1864年~1920年)は経済的に発展している国の多くがプロテスタント信者が多い国であることに気づきました。

 

最近のヨーロッパで特に一昨年から去年にかけて経済危機というのがありました。経済危機に陥った国の頭文字を取って「PIIGS」という言い方をしました。ポルトガル、イタリア、アイルランド、ギリシャ、スペインの5カ国です。特にEU内でユーロを使っている国々が経済的に破綻寸前という状況になり、ドイツやフランスが中心になってこれらの国々を救済するということになって大きなニュースになりました。これら五カ国の共通点、それはカトリック信者が多い国が占めているという事実です。厳密に言うとプロテスタントの国が入っていないのです。

 

キリスト教はパレスチナの地で生まれ、ここからローマ帝国全体へと広がって行きました。やがてローマ帝国は東西に分裂し、キリスト教はカトリックと東方正教会に分かれました。その後、カトリックに反発して生まれたのがプロテスタント。こうしてキリスト教は大きく三つに分かれます。アイルランド、イタリア、ポルトガル、スペインはカトリック信者が多数を占めているのに対し、ギリシャの国教はギリシャ正教、つまり東方正教会になります。

 

プロテスタントとはいったい何だったのでしょうか。カトリック教では「贖宥状(しょくゆうじょう)」つまり免罪符を買えば罪は許され天国にいけると考えていました。ローマ教皇はなぜ贖宥状を販売したのでしょうか。当時、ローマ教皇はサン・ピエトロ大聖堂を作りたいと考えていました。現在のローマの中にあるバチカンの大聖堂です。サン・ピエトロということは「聖ペテロ」です。十二人の使徒たちの中でイエスの一番弟子だと言われています。ペテロはイエスが十字架に架けられて殺されたあと、ローマまで行ってイエスの教えを広めようとしますが結局彼も処刑されてしまいます。後にローマがキリスト教の国になると聖ペテロのお墓の上にサン・ピエトロ大聖堂が作られるのです。

 

当時のローマ教皇は大聖堂を作りたい、だけどお金がない。信者からお金を集めるために贖宥状(免罪符)を発行しました。当時の教会においては「罪を認めて悔い改めれば許される」という考え方でした。善行の中には教会に寄付をするということも、それだけ熱心に神様を信じているわけですから良い行いとなるわけです。

 

「贖宥状を買えば天国に行ける」こうしたカトリックの教えに猛反発した人物がいます。ドイツの神学者マルチン・ルター(1483年~1546年)とフランス出身のカルヴァン(1509年~1564年)です。ルターとカルヴァンによる宗教改革。中でもカルヴァンが主張し、人々に大きな影響を与えたのが「予定説」です。それまでのカトリックは良い行いをすれば天国に行けるし、悪い行いをすれば地獄に堕ちる、日頃の行いが大事ですよと言っていたのに、カルヴァンはそうじゃない「最初から決まっているんだ」という大変厳しい教えを説いたのです。つまり神様は偉大である。絶対的な力を持っているわけだから、「人間はそもそも生まれた時から将来救われるかどうか決まっている」と主張したのです。

 

ウェーバーはカルヴァンの主張についてこう記しています。「この悲愴なまでに非人間的な教説は、その壮大な帰結を受け入れた世代の信徒たちの気分に大きな結果をもたらすことになった。人間は永遠の昔からの定められた運命に向かって、一人で孤独に歩まなければならない。(中略)他の誰も助けてくれないのである。牧師も彼を助けることは出来ない。(中略)どんな教会も助けてくれない。ここにおいて世界を呪術から解放するという宗教史の偉大なプロセスがついに完了したのである」(中略)神が救済を拒むことを決意した人間に対して、神の恩寵を与えることが出来る呪術的な方法など存在しえないし、そもそもいかなる方法によってもこれは不可能なのである」

 

努力をしようがしまいが、あなたの運命はもう決まっている。これが「非人間的な教え」です。「呪術的なことなど何の役にも立たない」という教えがこれ以降確立していくことになるのです。つまりプロテスタントは一人一人が「自分が救われるかどうか」という孤独な道を歩まなければならない。「個人主義」的な考え方がここから生まれていくのです。

 

カルヴァンが主張した「予定説」は人が救われるかどうかは意思や善行と関係なく、最初から神によって定められているというものでした。こうした考え方が資本主義を生んだというのです。「カルヴァン派の信徒は、常に自分が選ばれているか、それとも神に見捨てられているかという二者択一の問いの前に立ちながら、みずからをたえず吟味し続けることで救いを作り出すことが出来るのである。信徒たちは自分が選ばれた者だと信じることが絶対の義務だとみなし、その疑いを持つことは悪魔の誘惑として退けるよう求められた。自己への確信のなさは信仰の不足を示すものであり、恩寵の働きの不足によるものだとされたのである。こうした自己確信を獲得するための優れた手段として職業労働に休みなく従事することが教え込まれたのである。この職業労働だけが、宗教的な疑惑を追い払い、恩寵を与えられた状態にあるという『救いの確証』をもたらすことが出来るのである」

 

つまり自分は、救われる側なんだろうか、そうじゃないんだろうかということを確認したくなる。確認するためにはどうしたらいいのだろうか。とりわけ当時カルヴァン派では職業のことを「ベルーフ(天職)」と言いました。自分の仕事は神様から与えられたものだ。それをきちんと成し遂げれば、自分は神様から選ばれたということになるわけです。

 

カルヴァンの教えというのは非常に厳しいものでした。努力したってしかたない。最初から決められている。だからその中で人々は自分は選ばれている側かどうかを確認したい。そのためには与えられた仕事に一生懸命邁進するしかなかった、とうことになるのです。

 

こうして一生懸命に働けば成功する確率が高くなります。しかし一生懸命に働いたからといって成功するとは限りません。そうなると仕事に失敗した上に、自分は神様に選ばれていなかった。地獄に堕ちるしかないんだとなれば、それこそ自暴自棄になってしまうかも知れない。一方で仕事が上手く行けば自分は救われているということになります。でもそこで安住しないという考えになるのです。

 

「倫理的に見て否定する必要があるのは、信徒たちが所有することによって安息してしまうことであり、さらに富を享受することで怠慢や肉欲という帰結がもたらされること、財産を所有することが、このような安息をもたらすからこそ、いかがわしいと判断されたのである。というのは「聖徒の永遠の憩い」は来世において与えられるはずのものであり、地上において信徒たちは、自分が救いの状態にあることを確証するために、「昼間のうちは、彼を遣わされた方の業をなさねばならない」のである。時間を浪費することはすべての罪のうちでも第一の罪であり、原則としてもっとも重い罪でもある。労働の意欲に欠けているということは、恩寵の地位が失われていることを示す兆候なのである。財産を持つ人も、働かずに食べてはならない。それは「財産があれば」生きるための必要を満たすtめに労働をする必要はないとしても、「働け」という神の命令には、貧者と同じように従わなければならないからである。

 

せっかく仕事を一生懸命にして成功した。だからと言ってそれで遊んでしまったのでは、けっきょく神に選ばれてなかったということになるかも知れない。仕事は天職なのだから神様のためにされに働かなければならないのである。そもそも聖徒の永遠の憩いは来世において与えられるものだからである。天国に行けばいくらでも休めるのだから現世では懸命に働きなさい、ということなのです。

 

資本主義が発展するためには「資本の蓄積」が必要です。たくさんの資本(お金)があればそれを元手に工場を作り、労働者をやとい、さまざまな機械を購入出来、商品を作り、事業を発展させることが出来ます。その基本になるのが資本(キャピタル)です。そこで満足しない。そこからさらに先に進まなければならない。こうして資本がどんどん蓄積されてくる。その結果経済が大きく発展していく。このプロテスタントの考えがあるから経済は発展して来たのです。とマックス・ウェーバーは考えたのです。

 

カトリックの国ではどうだったのか。働いてお金が貯まったら贅沢な暮らしをし使い果たしてします。そうすると資本の蓄積がなくなってしまうので、資本主義経済は発展しなくなります。あるいは来世で天国に行きたいと思う人は、稼いだお金を教会に寄付します。そういう善行を積み重ねることで来世は天国に行けると思う。その結果カトリックの教会は非常に豪華絢爛たるものが多くなります。一概には言えませんがヨーロッパのカトリックの教会は豪華で、プロテスタントの教会は質素なものが多いのは事実です。こうしてヨーロッパにおける資本主義というものはプロテスタントの国で大いに発展してきたのです。

 

余談ですが、フランスでは正式な結婚よりも事実紺が多いという現状があります。これはフランスはカトリック信者が多いためなのです。カトリックでは離婚が認められていません。だから正式に結婚する人たちが少ないのです。

 

 

▶︎日吉