6、真夜中のピアノ
一週間が経った。
哲也の毎日は元通りに戻った。
学校でのストレス。塾でのストレス。
家でのストレス。毎日がストレスとの戦いだ。
そして、そのストレスは、
以前よりもずっと大きくふくらんできてるみたいだった。
哲也の目は前よりももっとどんよりとくもり、
肌は前よりももっとカサカサになり、
ほとんど誰とも話をしなくなっていた。
夜中、哲也はハッとして目を覚ました。
どこかでピアノを弾く音が聞こえたような気がしたのだ。
時計を見ると夜中の2時だった。
耳をすましてみる……。
何も聞こえない。(夢だったのかな?)
そう思ったとたんに、ポロンとピアノの音がした。
(やっぱりピアノの音だ!)
哲也はパジャマのまま起き上がると、そっと部屋を出た。
(一階の居間の方からだ!)階段を降りながら哲也は思った。
(理香だ! ピアノを弾いているのは絶対に理香だ!)
居間のドアを開けると、
ピアノを弾いていたのはやっぱり理香だった。
理香は、哲也の方に振り向きもしないで、
一心にピアノを弾いていた。
それはとっても悲しい曲だった。
哲也も理香に声をかけることを忘れていた。
居間に入ったとたんに、
そのピアノ曲に魅せられてしまったのだ。
その曲は哲也が今までに聞いたことのない曲だった。
とっても悲しい、だけどとっても美しい曲だった。
やがて、理香がピアノを弾きながら哲也の方にふり返った。
そしてにっこり笑って言った。
「さあ、一緒に弾きましょう」
哲也もにっこり笑ってうなずいた。
そして理香の膝の上に腰かけた。
すると、不思議なことに、
哲也のからだは理香のからだにすうっと重なって、
なんと、二人のからだはひとつになってしまったのだ。
そして、二人は一人になってピアノを弾き始めた。
理香の指の動きとまったく同じように、
自分の指が動いてピアノを弾いている。
哲也は最高にいい気分だった。
からだ中のストレスがキーを叩くたびに、
少しずつ少しずつ蒸発していくような感じがした。
ママも二階の寝室で目を覚ました。
一階から変な音が聞こえてくる。
ダンダンダン。それは何かを叩いているような音だった。
(泥棒かしら?)
恐くてからだがガタガタふるえたけど、
タイミングの悪いことに、
パパはきのうから出張で家にはいなかった。
ママは勇気をふるい起こして寝室を出た。
途中、キッチンに寄ってすりこぎをしっかり握った。
ダンダンダン。音はまだ続いている。
ママはふるえながら大きく深呼吸した。
そして力一杯に居間のドアを開けた。
すると、そこにはパジャマのままで、
ピアノを叩いている哲也がいた。
ピアノには鍵がかかっている。
哲也はフタを閉めたまま一心不乱にピアノを叩いていたのだ。
「なにしてるの!」
ママはそう叫ぶと、
哲也の手をつかんでピアノから引きはがそうとした。
「じゃましないで!」
哲也はそう言うと、
子供とは思えないような力でママの手をふりほどいた。
そして、まるで何かに取り憑かれたように、
ピアノを叩き続けるのだ。
(これはただ事じゃないわ!)
ママはカーッと頭に血がのぼるような感じがした。
「哲也、やめなさい!」
必死になって哲也を引きはがそうとするママ。
すごい力でママを突き飛ばす哲也。
テーブルにつまずいて床に倒れるママ。
ダンダンダンとピアノのフタを叩き続けている哲也。
ママはすぐに立ち上がると、
哲也を後ろから羽交締めにして、
思いっきりの力で引きはがした。
はずみで床に倒れる哲也とママ。
それでもピアノの方へ行こうともがく哲也。
「放してママ!」
「だめ、放さないわよ!」
「理香と一緒にピアノ弾くんだから!」
一瞬、ママの顔から血の気が引いた。
「理香ってだれ?」
「ほら、そこでピアノを弾いてる女の子だよ」
ママには理香の姿が見えなかった。
しかし、ママは一瞬のうちにすべてを理解した。
「ママには見えないの?
ほら、そこでピアノを弾いてるじゃない。
ボクも一緒にピアノを弾くんだ」
必死にママの手を振りほどこうとする哲也。
「だめ、行っちゃだめ!」
「ボク、行くんだ!」
「行っちゃだめ!」
「ピアノ弾くんだ!」
「行かないで! 哲也、行かないで!」
ママはたまらない気持ちで哲也をギュと抱きしめると、
ピアノの方に向って必死に叫んだ。
「理香、哲也を連れて行かないで!」
このとき、ピアノを弾くのをやめて、
理香が初めてママの方へふり返った。
そして悲しそうな顔をすると音も無く闇の中に消えていった。
ママの目からはどんどんどんどん涙があふれた。
涙は哲也のひたいや鼻の上に落ちた。
すると、今まであんなに力が入っていた哲也のからだから、
すうっと力が抜けて、
まるで今目を覚ましたという感じの、
ハッキリした目になってママの方を見た。
「ママ、理香がどっかに行っちゃったよ」
「ええ」
「今までピアノを弾いていたのに」
「ママが理香に頼んだの、哲也を連れて行かないようにって」
「ママ、理香のこと知ってるの?」
「ええ、知ってるわ」
「理香のことが見えるの?」
「いいえ、見えないけど、理香のことならよく知ってるわ」
「そうなの?」
「あなたのお姉さんなの」
「………!」
哲也は心臓が止まるかと思うくらいびっくりした。
「哲也の双子のお姉さんよ」
「………」
「でも、二人が生まれたとき、
あなたは生きて生まれることが出来たけど、
理香は死んで生まれてきたの」
「………」
「哲也が、もう少し大きくなったら話そうと思ってたのよ」
哲也は、なんだか急に悲しくなって泣き始めた。
「どうしたの?」
と、ママが聞いた。
「お姉ちゃんも、ピアノが弾きたかったんだよ。
きっと、そうだよ」
哲也の言葉に、ママもなんだか悲しくなった。
そしたら、ママの目からまだポロポロと涙があふれてきた。
「そうね、きっとそうね」
そう言って、ママは哲也を抱きしめると、
何度も何度もほおずりをした。
――おしまい――