4、ピアノを弾かないの?
ある夜、勉強している哲也の部屋に、
ママが入ってきてベッドに腰かけた。
そのときすぐ隣に理香がいたのだが、
相変わらずママには見えないようだ。
ママはにこにこしながら哲也に話しかけた。
「何かいいことあったの?」
「えっ、どうして?」
哲也はちょっと里香の方を見て、
それからちょっと緊張して答えた。
「なんだか、いつも楽しそうだし、
前より意欲的に勉強してるし」
「前から意欲的だよ」
「前はもっと嫌々やってるって感じだった」
「そうかなあ」
「自分にとって大切なことだってことがわかってきたの?」
「えっ?」
「勉強が」
「あ、ああ、まあね」
「そう、ママうれしいな」
「そおっ?」
「頑張ってね、今してることは将来、
絶対にあなたのためになるのよ」
そう言うと、ママはウィンクして部屋から出ていった。
哲也はなんだかいい気分だった。
(ボクがちゃんと頑張ると、
ママだってちゃんとわかってくれる。
ボクとママの関係は非常にうまくいってる)
哲也がそう思ったとたん、
理香が珍しく冷たい言い方で言った。
「わたしはちっともいい気分じゃないわ」
哲也はびっくりして理香の方へふり返った。
そして、少しとまどって理香に聞いた。
「ど、どうして?」
「だって、あなたは本当はちっともいい気分じゃないもの」
「えっ?」
「前にも言ったでしょ。
あなたが悪い気分のときはわたしも気分が悪いの」
「だって、ボク、いまママに褒められていい気分なんだよ」
辛そうな顔でじっと哲也を見つめる理香。
「どうしたの?」
「あなたって、自分の本当の気持ちもわからないの?」
哲也は混乱してきた。
そして急に不安な気持ちになった。
ここ何日かの哲也のいい気分は理香の存在があったからだ。
理香が自分と同じ気持ちでいてくれるという、
安心感があったからだ。
「ピアノ弾かないの?」
「えっ?」
「大好きなピアノを、もう一年以上も弾いてないでしょ。
わたしあなたがピアノ弾いてるときが大好きよ。
なぜピアノを弾かないの?」
「だって、勉強があるから」
「ピアノ弾いてるより勉強してるほうが楽しいの?」
「そんなの比べられないよ」
「わたしあなたがピアノ弾いて、
いい気分になってくれないと……」
理香はそこまで言うと、
突然思い詰めたような表情になってうつむいた。
哲也はさっきよりももっと不安になって理香に聞いた。
「どうなるの?」
「………」
だけど理香は答えてくれなかった。
うつむいたままじっとしていた。
哲也は不安な気持ちで一杯になった。
そして、もうそれ以上理香にたずねることが出来なくなった。
なぜって、もう一言喋ると理香が消えて、
いなくなってしまうんじゃないかと思えたからである。
その晩はそれきり二人とも黙ったままだった。
哲也は後ろにいる理香の方をまったく見ないで、
黙々と勉強を続けた。
