2、夏の夜の少女
それは、ある夏の夜のことだった。
その夜も哲也は勉強していた。
勉強部屋にはクーラーがあって涼しいのだが、
その夜はなんだか息苦しい感じがして勉強に集中出来ない。
いつもなら得意な算数の問題集も、
なんだか頭の中に入ってこない。
机の上に置いてあったガラスの猫の置物が、
すました顔してこっちを見てる。
哲也は突然腹が立ってきた。
(ボクがこんなにいらいらしてるのに!)
哲也はそいつをつかむと後ろに力一杯投げ捨てた。
ガラスの猫が壁にぶつかってガシャーンと音をたてて割れたら、
少しはすっきりするかも知れないな、と思ったのである。
……ところが、音はしなかったのだ。
ガシャーンと割れる音も、
それどころか壁にぶつかる音もしなかった。
投げたとたんにフッと消えてなくなったような、
そんな感じだった。
(あれっ?)哲也がそう思ったとたんに、
後ろで可愛らしい笑い声が聞こえた。
「うふふっ」
(えっ?)と、驚いて後ろを振り返る哲也。
するとそこには、ガラスの猫を手に持って、
にこにこ笑ってこっちを見ている、
ひとりの女の子が立っていた。
全然知らない子だった。
哲也と同い年くらいの、
それはそれはとっても可愛らしい女の子だった。
「君はだれ?」
「うふふっ」
「いつからそこにいたの?」
「うふふっ」
「うちの小学校じゃないよね」
「………」
「それとも親戚の子?」
「………」
なにを聞いても女の子はにこにこ笑っているだけだ。
哲也は少しムッとした気持ちになった。
すると、哲也のそんな気持ちを見抜いたように、
女の子が初めて口を開いた。
「あなたのこと好きよ」
哲也の心臓はドキンと鳴った。
こんなにストレートに告白されたのは生まれて初めてだ。
クーラーがきいているはずなのに、
おでこにジワッと汗がにじみ出てきた。
「と、突然、そんなこと言われても」
「だから心配なの」
「え?」
「このままじゃ、生きてるのか死んでるのかわからないわ」
「な、なに?」
「もっと生き生きしててほしいの」
「突然、なに言い出すんだよ」
「だって、あなたのこと好きなんだもん」
「ちょ、ちょっと!」
完全に彼女のペースだった。
と、そのときドアを開けてママが入ってきた。
「哲也、だれか来てるの?」
心臓が口から飛び出すかと思ったくらいびっくりした。
あんまり驚いたので、
「あっ、あっ」
と言うのが精一杯だった。
ママはずんずん部屋の中に入ってくる。
ケーキと紅茶を持ってきてくれたのだ。
「なあに、あんたひとりごと言ってたの?」
「えっ?」
ママは勉強机の上にケーキを置きながら、
あきれたように哲也を見た。
哲也はうろたえてママをじっと見た。
(ママには見えないの?)
「どうしたの?」
「い、いや、なんでもないよ」
「だいじょうぶ?」
ママが心配そうに哲也を見る。
「だいじょうぶだよ!」
「そう、じゃあ、勉強頑張ってね」
「う、うん」
「ファイト!」
「う、うん」
ママは哲也にウィンクすると、
にっこり笑って部屋から出ていった。
とたんに哲也はからだの力が全部抜けたような気がした。
そして、ゆっくり女の子のほうに振り返った。
女の子は哲也を見つめて少し笑った。そして、
「ママには見えないの」
そう言うと、ガラスの猫を机の上に置いて、
うつむいたままちょっと悲しそうな顔をした。