原爆と原発 | 田窪一世 独白ノート

田窪一世 独白ノート

ブログを再開することにしました。
舞台のこと、世の中のこと、心の中のこと、綴っていきます。


社会学者、宮台真司さんのご意見をラジオで拝聴し、

是非ともご紹介したいと思いました。



1945年8月、広島、長崎に投下された原爆によって、

約21万人の人々が殺されました。

1953年、ビキニ環礁における水爆実験で、

日本の漁船「第五福竜丸」が被爆して大事件になりました。

日本は被爆大国なのです。

にもかかわらず、その後日本は原発を推進し、

3.11で4度目の被爆を経験します。


現在も日本は原発再稼働に向けてアクセルを踏んでいますが。

原発を輸出する方向にもアクセルを踏んでいます。

多くの人はこのことに対し疑問を抱いていますが、

これについては「潜在的核抑止力」という言葉があるのを、

皆さんはご存知でしょうか。


いざとなったら原発施設においてすぐに原爆を作れるぞ。

という話なのです。

これは石破茂さんの持論でもありますし、

実はかなり昔の段階で、

外務省が内部文書でこれを記録しています。

原発の問題は実は原爆の問題と密接に繋がっているのです。


1953年12月8日、国連総会で、

アメリカのアイゼンハワー大統領が、

有名な「平和のための原子力」という演説を行います。

要はアメリカは原子力の技術を独占するのをやめる。

これを公開して先進各国に利用して貰うと言いました。

これを野放図にしないために、

国際原子力機関(IAEA)が設立されたのです。

つまりこのときの演説がIAEAのルーツだったのです。


ところがこの演説の直後、1954年3月に、

ビキニ環礁水爆実験による第五福竜丸被爆事件が起こります。

このことで世界的に核に対する反対世論が盛り上がり、

特に日本ではこれが大々的に報じられました。

しかしアメリカとしては当時冷戦下であったため、

共産主義勢力が伸び広がることを恐れ、

1954年4月には日本に対し原子力の平和利用に関する、

博覧会を開くように指示します。

そして1955年8月から2年弱に渡り、

全国11都市で「原子力平和利用博覧会」が開かれ、

なんとこれに延べ270万人の人々を動員します。

1956年5月には広島でも開催され12万人が動員されました。


アメリカの原子力委員会は、

この成果を報告書に次のように記しています。

「日本人の原子力エネルギーへの態度をめざましく変えた。

大統領の平和利用構想に、

これほど好意的な国が他にあるだろうか」


そして翌1957年8月、

これに呼応するかのように当時原発推進勢力だった、

中曽根康弘氏と正力松太郎氏の尽力の成果として、

日本での博覧会が終わったのと同じ月に、

日本で最初の原子力の灯が灯されるのです。


この状況に憤った湯川秀樹博士を始めとする、

物理学者たちの多くが原子力委員会を脱会したり、

当然ながらこれに対しての反対勢力として、

原水爆禁止日本協議会が結成され、

1955年8月に「原子力禁止世界大会」を開催し、

年間3000万人の署名を集めますが、

しかしこの反対運動は、活動を推進していた共産党と、

社会党の考え方の違いからすぐに分裂してしまいます。


最初に述べたように、石破茂さんは2011年の秋に、

ある雑誌で「原発を維持して行くことが、

核の潜在的抑止力になる」と強く主張しています。

また「核拡散防止条約」1969年の外務省の内部文書に、

「核兵器製造の潜在能力は常に保持する」

という一節があります。

すなわち原発推進勢力に取っては原爆のための原発なのです。



第二次世界大戦中、実は日本軍も、

原爆の研究をしていたということを最近知りました。

国VS国という単純な図式で割り切れる問題ではないようです。



▶︎近景