板東玉三郎 | 田窪一世 独白ノート

田窪一世 独白ノート

ブログを再開することにしました。
舞台のこと、世の中のこと、心の中のこと、綴っていきます。


音楽と動きというものが、ちゃんと自分の体に入っていて、

もちろん決められた振りですけどね、

それが踊っているうちに自然に降りてくるものなんですよ。

それでいつ降りたのか降りないのか、

降りているのかいないのか、わからないんです、自分では。

そういうもんです。


ただ、無意識だったなという瞬間があとになってわかるんです。

それでもうひとつ言えることがあるんですが、

たとえば道成寺なんか踊ってますよね。

それで鐘に入った安珍の鐘に対する恨みというか、

自分を隔てた時というか、

そういう恨みを持って踊ってるわけですよね。

で、道成寺を躍っている振りがある、型がある、

衣装を着ている、ずっとやってるんですが、

音楽が非常にうまく奏でられていて、

自分が非常にバランスの良いはみ出ることのない踊りの中で、

グッと気持ちが入ったときに、本当に恨めるものなんですよ。

たぶん自分の細胞や遺伝子の中に「恨み」があるんですね。

それが躍っているうちに、

いきなりクローズアップされて大きくなるんです。


ですからいろんな小説とか戯曲の中で、

いろんな人物がいますよね。

で、その人物になるということは、

自分のどこかの記憶とか細胞の中に、

そういう魂があるのかなと探る作業が稽古なんです。

でも探りきれないまま本番もやってるんです。

ところがいつかパッと出てきて、あっと自分で気づくんです。


坂東玉三郎さんのこの言葉、非常に興味深いですね。

これと同じようなことを、

メリル・ストリープもおっしゃっていました。

天才は天才を知る、ですね。



▶︎みりん