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田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。

亀三郎とすゑの長男は亀吉

文政六年(1823)八月十一日生まれ。

父亀三郎28才、すゑ23才か。住まいは下組町か上組町か。足軽の身分のため。

 

『概説 八戸の歴史 中2』から「封建的危機と改革」より抜粋

※二 身分制度の崩壊ーーー武家の解体と武家への上昇

士・農・工・商という身分制度は封建社会を維持するためには重要な支柱。

武士団が支配階級として上位に位置するためには経済的な裏付けと苗字帯刀に象徴される一種の権威がひつようであった。

亀三郎の妻 すゑは上組町 石橋三之丈二女

寛政十二年(1800)生まれ。・・とあった。

 

『概説 八戸の歴史 中2』から「封建的危機と改革」より抜粋

※幕藩体制の基礎である後期封建社会を支えている三大支柱である土地制度、身分制度、

鎖国制度の崩壊

一、土地制度の崩壊・・・・農民の階層分化

元禄・享保以降八戸地方における商人の活躍が活発になり、貨幣経済が農村に浸潤し、勝つ凶作・飢饉の襲来が激しくなるにつれて、商業資本による土地の集積が大規模化する。

地主小作人の区別も生まれ農民の階層分化が顕著になった。・・・

八戸藩下組町の足軽。松橋亀三郎。壬申戸籍簿には善治ともある。

生年不明だが、妻すゑは寛政十二年(1800)生まれなので、3才ぐらい上だとして、

寛政七年(1795)頃の生まれか。・・

文政六年(1823)に息子亀吉が生まれた。

幸便よいついでにて江戸に行ったのは文政十一年(1828)で、亀三郎31才頃か。

※幸便・・・移動する人々に書状の輸送を依頼する方法は、近世の通信で広く見られる。

ただ、この方法は所要時間が通常の参勤交代の数である十六日前後もかかる、発信も不定期であった。また輸送量にも限界があり確実性にも欠ける。藩士達は書状と同様に荷物の輸送も互助していた。・・・・・とある。

遠山家日記・・寛政四年(1792)から大正四年(1919)までの117年間の日記だとある。

 

※足軽とは個人の仕事に対する報酬をうけ、一代限りの個人契約。基本的には縁故採用、予備役(郷士)では無く、常備軍の武士である。

一代限りの身分であるが、実際には世襲は可能、生活できるくらいの報酬。その権利が

「株」として売買され、富裕な農民・商人の次・三男の就職口ともなった。また有能な人材を民間から登用する際、一時的に足軽として藩に在籍させ、その後昇進させる等もあり、近世では下級公務員的性格へと変化していった。零落の武士や、流浪の民等もいた様だが百姓を加わっているのは、人災、天災、飢餓、貧困により発生したため。

・・・・『旧藩情 旧藩情諸言』 著福沢諭吉より抜き出す。

※福沢諭吉(天保五年1835年生)が中津藩(大分県中津市)のことを書いているが諸藩これと同じだろうと。ある。

『松十の竹ちゃん』にもあった。

文政十一年(1828)九月六日 晴昼雷少々有り

先頃江戸表より御足軽松橋亀三郎と申す者、戻りに付き、

書状並びに屯方より下し物残らず受け取り、尤も、

紙包み物三つ也外に内丸よりも受け取り、はは殿注文の品々残らず来た、

黒袖へ計相残。

※遠山 屯・・俳名山霜堂念遠(さんそうどうおんえん)と読むのか?

「八戸藩江戸勤番武士の購買行動と国元」著 岩淵令治 より

文政11年(1828)

遠山家の江戸で勤番の屯が八戸のいる父に送った。

当秋に娘おまんが嫁入りのため買い物を頼んだ。

江戸到着が八月四日 八月八日松坂屋などで購入

八月十三日三田辺りへ買い物

八月十五日 幸便

九月六日幸便 (下組足軽 松橋亀三郎)

※下組町・・八戸城下の一番東に位置し足軽を配置し、敵の侵入に

備えたところ、玄中寺を中心とした柏崎四、五丁目付近。

※幸便・・私的な輸送方法で江戸、八戸を行き来する藩士に注文書および運搬をする方法である。