田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan -7ページ目

田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。

コトバンク・・床屋を検索

髪結床(かみゆいどこ)の略称。室町時代から男子の調髪、髭(ひげ)、月代(さかやき)を剃(そ)った職業。現在は理容室、調髪所ともいう。元来、男の髪は総髪で、高貴の間では冠下髻(かんむりしたのもとどり)とし、庶民は簡単な束ね髪であった。武家社会となって、互いに勢力を競って戦いを挑み、その戦乱が長く続くと、武士は髪の蒸れるのを防ぐために月代をあけるようになり、その月代が大きくなるにつれて、職業としての床屋の需要が生じた。それまでは毛抜きを用いて抜いたので、血だらけになったことが南蛮人の記録にある。床屋としての最古の絵画は上杉(うえすぎ)本『洛中(らくちゅう)洛外図屏風(びょうぶ)』にみられるので、永禄(えいろく)~天正(てんしょう)(1558~92)のころには職業として成立していたといえる。当初の床屋の仕事は、月代の毛を抜くことにあった。それが髪を結うようになったのは天正年間も終わりごろからであり、当初は一銭剃(ぞり)、一銭職ともいわれた。江戸時代に入って江戸の町ごとに株仲間ができるようになり、滑稽本(こっけいぼん)『浮世床』にみられるように繁盛していき、文明開化とともに洋風の床屋に変わっていった。

[遠藤 武]

① (江戸時代、男の髪を結う髪結職が床店(とこみせ)で仕事をしていたところから) 髪結床(かみゆいどこ)

※俳諧・河鵆(1817)冬「はふり子は床や也けり里神楽〈求古〉」

② 理髪店。また、理髪師。

※文明開化(1873‐74)〈加藤祐一〉初「何某は狐に誑(ば)かされたさうなと、風呂屋でもいひ床屋(トコヤ)でもいふ」

③ (「床」は「鉄床(かなとこ)」の略) 鉄敷(かなしき)屋。

※梅津政景日記‐慶長一七年(1612)三月二二日「今日も床屋より火事出候間、床屋を皆々ぬらせ候へと申付候」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 

江戸時代の流行病・・で検索している。

孫三郎が生まれた嘉永四年(1851)の翌年にお爺さんの亀三郎が

嘉永五年(1852)二月三日に八戸にて寂す。とある。

亀吉は髪結床だった。

書き物には嘉永六年(1853)に、なぜか八戸から田子へ引っ越しした。と。

なぜ・・・・?孫三郎が3才の頃らしい。・・・なぜ・・・。

亀吉28才と妻そよ25才

長男がうまれる。嘉永四年(1851)十二月十日

まだ維新明治には17年ある。

松橋亀三郎と妻すゑ

の長男亀吉は文政六年(1823)八月十一日生まれ。

亀吉は髪結いを本業としていた。

妻のそよは八戸町平民亡浅野伊助三女(壬申戸籍には十八日町亡湯浅伊助三女)

文政九年(1826)十二月二十七日生。とある。

 

※江戸時代八戸藩 「遠山家日記」には,幸便の記録が頻繁に載っている。

よいついで・・・頼まれていたのは足軽である。それを書き出すと、、

御足軽上組与兵衛      御足軽松橋亀三郎

御足軽政吉         上組福太郎

御足軽九馬之助       御足軽上組兵次郎

上組足軽松太郎・政吉    御足軽与吉

御足軽五郎右衛門      御足軽八十八

足軽下組民右衛門      上組足軽又八郎

御足軽下組池田万蔵     御足軽久馬之助

御足軽久米之助       御足軽与右衛門・長之丞

御足軽小頭九伝治      下組足軽富蔵

上組足軽安次郎       御足軽平蔵

下組御足軽森久馬之助    御足軽喜三郎

御足軽富次・万吉      御足軽上丁富次郎

御足軽小頭良之助      御足軽久米次郎 御足軽友吉

御足軽五郎右衛門・嘉右衛門 御足軽松五郎・甚太郎

等々・・・・。

「八戸藩の歴史 八戸の歴史双書」著 工藤祐董より

八戸藩の支配行政組織図「中央行政組織図」より()内の人数は人員で「お役順八戸藩」による

              家老(1)・中老(3)

                  |

            ーーーーーーーーーーーーーー

           役方             番方

      勝手        側廻    者頭(4)   番頭(3)

                用人    足軽(四組編成)番士(三番編成)

                 |

                 | 

馬目付 山目付 寺社町奉行 勘定頭 目付 吟味 馬別当 祐筆 側医 近習 納戸 刀番

 

(注)縦書きを横書きにしたので。。。。

 

八戸藩資料より

※元禄八年(1695)

家中諸士家族  1173人

足軽家族     617人

家中並寺院召使 11515人(給所百姓)

寺院並行人    1539人

代官所支配   30496人

町家       2886人   座頭   282人

    計 58507人

領内人口比率は百姓約89%

※延享元年(1744) には領内人口は 73448人

※寛延二年(1749)の領内人口は   71354人

とある。

「三菱の紋おそるべきか。向い鶴の紋恐るべきか。」とうたわれるほどだった。

七崎屋の紋は三菱(正しくは丸松皮菱)

八戸藩の紋は向い鶴である。

も一つの新井田孫助家の紋は(丸に木瓜)

亀三郎の紋も丸に木瓜であるので、新井田孫助系統になるようだ。

亀三郎とすゑは髪結床をしていた。。。。

 

『概説 八戸の歴史 中2』から「封建的危機と改革」より抜粋

※三、鎖国制度の崩壊ーーーーこの危機に対する意識は八戸藩の場合其の認識が薄かった藩に属する。

八戸藩の財政窮乏は開藩からついてまわっていた。藩は反対給付として苗字帯刀、御免地の付与、金上武士への登用、問屋仲間制度の許容などの特権を付与せざるっを得なかった。それは最下位の身分の商人に対する叩頭であり商業資本との妥協であった。