田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan -6ページ目

田子町のにんにくブログ TakkoAomoriJapan

青森県田子町は「にんにく」で有名になった。これはアメリカカリフォルニア州ギルロイ市と1988年姉妹都市締結したことで広く知られることになった。『にんにくの縁』は100年さかのぼることができる。それを知って欲しい。

八戸の城下町・・・・・八戸市のHPより

 

 

八戸の街づくりは、寛永7年(1630)に始まったとされています。廿三日町、十三日町、三日町、八日町、十八日町、廿八日町といった表通りは正保年間(1644~47)には完成しており、廿六日町、十六日町、六日町、朔日町、十一日町、廿一日町といった裏通りについても慶安元年(1648)には成立していたと推測されています。

八戸藩の藩主・・・八戸市のHPより

 

 

寛永4年(1627)の根城南部氏の遠野移封後、八戸藩初代藩主直房の父である利直(盛岡藩主)が「町割り(今で言う区画整理)」を始め、寛永7年(1630)には、三日町、十三日町、廿三日町、八日町、十八日町、廿八日町の新市街が完成したと伝えられています。八戸町の始まりです。

ヤフーの知恵袋に・・・・

ベストアンサー

2008/11/21 5:53

農民が移動出来ないのは、農地が農民の所有物だったからです。 農地と農民がセットになっていたため、農民が農地を離れると、その土地からの収穫が出来なくなり、大名の年貢も減るため、勝手な移動は禁止されていました。 商工業者、医者などは、もともと税金を支払わないので、他国へ移動しても大名の財政には影響がないので、比較的移動は楽でした。

コトバンク  より検索

足軽・・・・

武家時代の歩卒雑兵のこと。「足軽く駆け回る者」の意。鎌倉時代の軍記物にすでに足軽という名称がある。当時の戦争は,騎馬による個人的戦闘が主であるから,足軽は,主要戦闘力としてではなく,後方攪乱,放火などに使用され,荘園の一般農民から徴発された。鎌倉時代末期から南北朝動乱以降,戦闘形態が,個人的戦闘から次第に歩卒による集団的戦闘に変化していくに従って,戦争における足軽の活躍が顕著になった。室町時代には,平時は農耕に従事する農民が戦時には陣夫として徴発される体制が一般的に成立した。特に山城,大和などは荘園制の崩壊,農民層の分解が早かったので,この体制の成立も早かった。応仁,文明の大乱 (→応仁の乱 ) のときには,畿内には山城足軽衆や郡山足軽衆などと呼ばれる足軽の組織があって,東西両軍いずれかの陣営に属していた。彼らは経済的目的のみに走り,放火略奪をもっぱらにした。一条兼良が『樵談治要』のなかでこれを時局の弊としてあげているのは有名。戦国時代になると,戦国大名の統制によって,兵農分離が進み,戦争も鉄砲,火薬などが使用されるようになったのでその重要性が増し,訓練された歩卒となり,足軽大将の下に鉄砲足軽弓足軽として常備軍に編入された。江戸時代には,制度化され,城下町に移住,足軽町としてその一画を形成し,平時は雑役に,戦時は足軽組に属して歩卒となるという最下層の武士団を形成した。明治維新後は一時「」と呼ばれたが,廃藩のときは,その一部が士族に編入された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報