「悲劇」の話(しょうゆとみぽりんとマスクと) | エニアグラムと哲学のTakkme

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以前、本質は無いという話をした。

◉本質の話

 

正確に言えば、
本質という言語がある」という話をした。

「本質」と「本質という言語」の差異の話だった。
「猫」と「猫という言語」の差異の話だった。

最近やたらと更新する。笑




さて、今回は「悲劇」にしてみよう。
時流に乗って、と言うと言語は順調だから、
自粛警察に怒られるかもしれない。

ちなみにこれは「喜劇」でも構わない。
だからその意味でも怒るのはおかしいけれど、
なおさら怒られるのかもしれない。

前回、「しょうゆ」と「中山美穂」が同じ意味だと考えたことがあると話した。
今回その内容に触れようというのであるが。。

 

 

 

 

「悲劇」と「悲劇という言語」の間にはとんでもない差異(壁)がある。


ボクは、悲劇そのものが与えてくれる何かがあると思っている。
といってボクは、
「悲劇にもいい教訓や捉え方があるんですよ~」と言いたいのではない。
逆かもしれない。

「猫」と「猫という言語」の間にはとんでもない差異(壁)がある
という話なのである。
ボクは、猫そのものが与えてくれる何かがあると思っている。

 

何を言っているんだコイツと思われるかもしれない。




「悲劇」は通常、に関わる。

死人に口無しと言うが、
ボクは「死」に口無しと言いたい。

ボクは「悲劇」の中にいる時、
「悲劇という言語」を知らない。


「ボクはこの数年、悲劇の中にいた」という言語を発することができるが、
それを発することこそが、その「悲劇」から遠ざかる。

カウンセリングが、言語化することによって「客観」という立場を手に入れることは、
この好例だろうか。それもまた悲劇(喜劇)化だろうか。

ボクは「喜劇」の中にいる時、
「喜劇という言語」を知らない。


少し言いたい事が分ってきて頂けただろうか。

 

 

かかる意味において、
「しょうゆと中山美穂が同じ意味だ」と言語化することが可能だ、
と考えたという話なのである。

完全に余談だが、これは物理学を使って、
「しょうゆ」と「中山美穂」は量子(ゆらぎ)レベルでは同じだと言語化出来る。
なんだかこれも面白い。言語は方便だ。

何を言っているんだコイツと思われるかもしれない。





「死」について語ることは二重の意味で茶番である。

ボクは「死」の中にいる時、
「死という言語」を知らない、


のに、
ましてや死んだこともないからだ。
(「死」の中にいれない)

言語は方便(茶番)で、かつ順調だ。
 

 

 

 

 

「しょうゆと中山美穂が同じ意味だ」という文章は、
世界から理(ことわり)を抽出している。
だから、意味が通じるのだ。
これを「言語が順調だ」と表現することができる。

しかし、いかんせん「意味」は分らない(理解出来ない)。笑
これは「言語が方便(茶番)だ」と言える事態である。
ボクは、その事態さえも言語化させようと試みている。


何を言っているんだコイツと思われるかもしれない。
しかし、少しづつ何が言いたいのか分ってきて頂けている、のなら嬉しい。

ボクは「茶番」が好きなのかもしれない。




考えてみれば、小説や映画や歌や詩や、、政治や、、あれもこれも、、
「茶番」である。アベノマスクである。
ボクは「アベノマスク」が好きなのかもしれない。
届いてはいないが。

それは、
描けばけば描くほど描きたい事から離れるだろう。
そこに自覚的になればなるほど、沈黙を強いられるだろう。

あるいは、
沈黙に代わる「茶番(マスク)」を強いられるだろう。

それが「人生」だろうか。





「はんこ」は無駄じゃないか!という議論を最近見た。笑
人間は「茶番=はんこ」が好きなのだ。

「無駄だから、はんこなんか無くしてしまえ!」という人もいたが、
「無駄だから、ことばなんか無くしてしまえ!」という文章とさほど変わらないのである。

ボクがいつも「言語の限界に向かって突き進む!」と言うのは、
「茶番」の可能性に懸けると言っているに過ぎないのかもしれない。

しかし、この「茶番」は順調なのだ。
ボクは茶番=言語が好きなのかもしれない。
ボクの夢はこの順調さを99.999・・・%活かすことである。

(100%は無、言語が無くなる地点だろう)

ボクはそれでもなお言語の限界に向かって突き進むのだ。

 

 

 

 

 

 

だから、どうせなら好きな言語を念仏のように唱えようか。








みぽりんみぽりんみぽりんみぽりん・・・








ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー・・・







言語の順調さの一つの極北が、
祈りなのではないかとボクはかんがえている。
念仏はそのマスクである。
届いていないか、
またボクのポストを観に行くとしよう。



断っておくが、ボクはみぽりんのファンではない。
最近、水着姿を見た深キョンに変えようと思っていたところである。