以前、本質は無いという話をした。
正確に言えば、
「本質という言語がある」という話をした。
「本質」と「本質という言語」の差異の話だった。
「猫」と「猫という言語」の差異の話だった。
最近やたらと更新する。笑
さて、今回は「悲劇」にしてみよう。
時流に乗って、と言うと言語は順調だから、
自粛警察に怒られるかもしれない。
ちなみにこれは「喜劇」でも構わない。
だからその意味でも怒るのはおかしいけれど、
なおさら怒られるのかもしれない。
前回、「しょうゆ」と「中山美穂」が同じ意味だと考えたことがあると話した。
今回その内容に触れようというのであるが。。
「悲劇」と「悲劇という言語」の間にはとんでもない差異(壁)がある。
ボクは、悲劇そのものが与えてくれる何かがあると思っている。
といってボクは、
「悲劇にもいい教訓や捉え方があるんですよ~」と言いたいのではない。
逆かもしれない。
「猫」と「猫という言語」の間にはとんでもない差異(壁)がある、
という話なのである。
ボクは、猫そのものが与えてくれる何かがあると思っている。
何を言っているんだコイツと思われるかもしれない。
「悲劇」は通常、死に関わる。
死人に口無しと言うが、
ボクは「死」に口無しと言いたい。
ボクは「悲劇」の中にいる時、
「悲劇という言語」を知らない。
「ボクはこの数年、悲劇の中にいた」という言語を発することができるが、
それを発することこそが、その「悲劇」から遠ざかる。
カウンセリングが、言語化することによって「客観」という立場を手に入れることは、
この好例だろうか。それもまた悲劇(喜劇)化だろうか。
ボクは「喜劇」の中にいる時、
「喜劇という言語」を知らない。
少し言いたい事が分ってきて頂けただろうか。
かかる意味において、
「しょうゆと中山美穂が同じ意味だ」と言語化することが可能だ、
と考えたという話なのである。
完全に余談だが、これは物理学を使って、
「しょうゆ」と「中山美穂」は量子(ゆらぎ)レベルでは同じだと言語化出来る。
なんだかこれも面白い。言語は方便だ。
何を言っているんだコイツと思われるかもしれない。
「死」について語ることは二重の意味で茶番である。
ボクは「死」の中にいる時、
「死という言語」を知らない、
のに、
ましてや死んだこともないからだ。
(「死」の中にいれない)
言語は方便(茶番)で、かつ順調だ。
「しょうゆと中山美穂が同じ意味だ」という文章は、
世界から理(ことわり)を抽出している。
だから、意味が通じるのだ。
これを「言語が順調だ」と表現することができる。
しかし、いかんせん「意味」は分らない(理解出来ない)。笑
これは「言語が方便(茶番)だ」と言える事態である。
ボクは、その事態さえも言語化させようと試みている。
何を言っているんだコイツと思われるかもしれない。
しかし、少しづつ何が言いたいのか分ってきて頂けている、のなら嬉しい。
ボクは「茶番」が好きなのかもしれない。
考えてみれば、小説や映画や歌や詩や、、政治や、、あれもこれも、、
「茶番」である。アベノマスクである。
ボクは「アベノマスク」が好きなのかもしれない。
届いてはいないが。
それは、
描けばけば描くほど描きたい事から離れるだろう。
そこに自覚的になればなるほど、沈黙を強いられるだろう。
あるいは、
沈黙に代わる「茶番(マスク)」を強いられるだろう。
それが「人生」だろうか。
「はんこ」は無駄じゃないか!という議論を最近見た。笑
人間は「茶番=はんこ」が好きなのだ。
「無駄だから、はんこなんか無くしてしまえ!」という人もいたが、
「無駄だから、ことばなんか無くしてしまえ!」という文章とさほど変わらないのである。
ボクがいつも「言語の限界に向かって突き進む!」と言うのは、
「茶番」の可能性に懸けると言っているに過ぎないのかもしれない。
しかし、この「茶番」は順調なのだ。
ボクは茶番=言語が好きなのかもしれない。
ボクの夢はこの順調さを99.999・・・%活かすことである。
(100%は無、言語が無くなる地点だろう)
ボクはそれでもなお言語の限界に向かって突き進むのだ。
だから、どうせなら好きな言語を念仏のように唱えようか。
みぽりんみぽりんみぽりんみぽりん・・・
ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー・・・
言語の順調さの一つの極北が、
祈りなのではないかとボクはかんがえている。
念仏はそのマスクである。
届いていないか、
またボクのポストを観に行くとしよう。
断っておくが、ボクはみぽりんのファンではない。
最近、水着姿を見た深キョンに変えようと思っていたところである。