この話をまず、しておかなければならなかった。
でなければ「話」がそもそも出来ない、のだ。
ましてやブログなんて。笑
けれど、この話をするのは難しい、原理的に。
「本質」ってなんだろうか。
この言葉自体、形而上学的で、
アレルギーのある人もいるかもしれない。
「本質」って言葉が出てきた時点で、怪しい、妖しい。
確かに。
まずはその直感は当たっているのかもしれない。
「本質」ってなんだろうか。
「言葉」である。
当たり前だろ!と言われるかもしないが、
特にこの事柄においては重要な前提である。
言葉がなければ「本質」もない。
いやいや、言葉がなくたって本質はあるだろ!
と言われるかもしないが、それは誤解だと思う。
そのことについて話がしたい。
「言葉」は「本質」抜きには成立しないと思う。
逆もまた然り。
つまり「本質」を説明するには、
言葉で「言葉」を説明するという不可能性に挑むことになるのだろう。
だからそのためには詐欺的な手法を使わなければならない。笑
まずは、
分かりやすい例でいこうと思う。
「円」という言葉がある。
これは数学用語でもあるので、例にとりやすい。
「円」ってなんだろうか。
数学ではこう説明される。
「一点から等距離にある点の集合」
そんなものが(この世に)あるだろうか?
残念ながら、ない。*
哲学的な素養のない妹(タイプ7)がこう言った。
「正確なコンパスで描けばいいじゃん!」
そういう話ではない。笑
言えば「正確な」ってなんだろうか、
と問うているわけだ。
例えば、人間より「正確な」宇宙人に、
円の説明を「一点から等距離にある点の集合」とすれば、
そんなものはないと即座に答えてくれるだろう。
(実はこの宇宙人には言葉が通じないはずだが)
人間に言葉(カテゴライズ)が可能なのは、
「円」という言葉の本質を直感できるからだ。
子供に、まあるいお月さまを指して、
「まんまるだね~」と教えた時点で、
その子供は円の本質を直感し、理解する。
(もちろん正確にはもう少し手順が必要だが)
これをボクは本質直感と呼んでいる*。
さて、同じように
「猫」ってなんだろうか。
そんなものが(この世に)あるだろうか?
残念ながら、ない。
宇宙人に「猫」を教えることが可能だろうか。
それは、大著『ザ・猫』を記してみても無理かもしれない。
もし可能ならば、
それは「言葉」が可能だということだ。
子供に猫を指差し、
「にゃんにゃんがいるね~」と言えば、
子供はたちまちのうちに「猫」を理解する。
それは「猫」という言葉が、
猫の「本質」を指し示しているからに違いない。
言い換えると、
「猫」という言葉が指し示している先を「本質」と名付けたのだろう。
なんとなれば、「猫」ってなんだろうか、
という問いの「」の中にはどんな言葉でも入れることが出来る。
例えば「愛」や「神」などの
より象徴度の高い言葉を入れてみるとどうだろうか。
「愛」とは?
「神」とは?
こうなると「本質」の掴み合いだ。
世界は「言葉」で混乱している。
言葉は危険だ。
だって、
言葉=本質は実在しないのだから。
言語活動はトラウマが回帰してきたものだ、と言ったのは
精神分析学者ジャック・ラカンである。
現実という真実を「言葉」という不真実に切り刻んでしまったのが、
人間の正体なのかもしれない。
さて、
「浮気」ってなんだろうか。
そんなものが(この世に)あるだろうか?
残念ながら、ない。
男性諸君、この真実は使える。笑
備考**************
ちなみにこの話はグルジェフの言う<本質>の話ではない。
本来の意味?での「本質」の話をしている。
つまり彼の言葉を聞く時、
彼の言う<本質>の本質を我々は直感しなければならない。
でなければ、彼の言葉は我々には通じないということになる。
言葉は字面ではないというわけだ。
言葉の混乱は、人間の混乱(トラウマ)を象徴するものだ。
ボクが言った本質直感が可能なのは、
人類の「種」という仕組みの上で成り立っているからだろう。
宇宙人を例に出したが、別に他の種でも構わないわけだ。
おそらく言語が通じない。
ボクは言語の通じなくなった人に興味をそそられる。
と同時に怖い。
>「円」〜残念ながら、ない
しかし、確かに論理的にはある。
だから「ある」ということかもしれない。
ただ、このことと今日のテーマは無関係だろう。
>本質直感と呼んでいる
現象学の言う哲学用語である本質直観と区別するために、
「直感」という語を使ったが、ここでも本当は「直観」が正しいのかもしれない。