ボクは時事的な問題はあまり取り上げないことにしている。
その「事態」に同一化してしまうからだ。
それは他にまかせたい。
しかしボクは決して黙っているわけではない。
ほら!笑
それでもボクは言語の限界に向かって突き進もう。
さて、今回の問題、
「発言しにくい」とも発言しにくい。苦笑
今回の「岡村隆史発言炎上」は国語と哲学のテキストに最適だと思う。
(とりあえず色んな場面での自殺は避けるよう願いたい)
ちなみに倫理や道徳のテキストではない。
ここでは「倫理とは?道徳とは?」と問わねばならない、
という意味で、である。
世の中には単純な人たちが多すぎて残念だが、
さて(批判を含め)どちらが、どこまで、どのように残念なのか。
その残念さはどこにあるのか、どこまで深いのか。
そして何より自分の残念さはどこに位置するのか。
それを掴むためのテキストという意味である。
「正解はない」、とも発言しにくい。苦笑
しかし、やはり正解はない。
それはやはり言語の問題だからだ。
言語が方便であることは確かだ。
ボクの今の興味はその「言語の順調さ」にある。
方便なのに順調なところが面白い。
方便だから順調なのかもしれない。
先日、トイレットペーパーがなくなるのは「言語の順調さ」にあると書いた。
それは順調であるが故に、我々のその(言語)活動の病理を逆照射する。
言語活動 VS 言語活動
哲学の仕事は、それを観察することしか出来ないが、
その事態の複雑さとその本質を指し示すヒントにはなるのかもしれない。
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言語の順調さについてはこちらに書いている。