脱・エニアグラムへ至る道(『脱・イメージ』論1) | エニアグラムと哲学のTakkme

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◉9つの性格タイプ論としてのエニアグラム
◉神秘と哲学の両輪

さて、究極の問題である。

この問題は反感を買う場合がある。

恐らく人間が究極的に守りたい地点なのかもしれない。

 

 

 

それは「イメージ」である。

 

 

 

これは「イメージ」自体が良いか悪いかといった問題提起ではない。

むしろ人間が「良い・悪い」といった「イメージ」を超え、

「現実(リアル)」に触れることが出来得るのかという問いである。

 

 

 

クリシュナムルティ*は我々にこう問うた。

 

「人間にイメージしないことは可能か?」と。

 

 

 

どういうことだろうか。

 

 

一般に、人間は「現実」に触れることが出来ないと言われる*。

「自分」と「現実」との間には「肉体」が挟まっているからだ。

この肉体の中で最たるものが「脳」である*。

 

言い換えれば、

人間は「現実」に対して「脳」を介してしか触れることが出来ない。

(もちろん全身で触れているのだが、脳をその象徴として考えると*)

このアバターである「脳」が巻き起こす

最も厄介な現象が「イメージ」である。

 

イマジネーションと言えば聞こえはいいが、妄想と言い換えるとどうだろうか。

人間は勝手なもので、「現実」に触れることが出来ないことをいいことに、

この「現実」に複数の名を与え、その混乱を象徴し、果ては正当化する。

 

もちろん「言語(名)」も「イメージ」の最たるものだ。

 

「人間の言語活動はトラウマが回帰してきたものだ」と言われる。

人間の言語(=イメージ)活動が、

そのトラウマと切っても切れない関係であることが、

本稿のテーマであるとも言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

人間には葛藤がある。

その葛藤によって人間は傷つく。

 

 

この葛藤という戦争を終わらせるためには、

イメージ(=葛藤)を終わらせなくてはならない。

 

 

それは、無理ではないのかという説もある。

人間はそういうものだと、

人間には葛藤があるからこそ、豊潤な存在なんだと。。

そうかもしれない。

ここがこの問題の反感を買う部分に違いない。

 

 

ボクはそちらの立場に立つとき*、

「戦争」を肯定する。

「戦争」とは「葛藤」だからだ。

 

ボクはそちらの立場に立つとき「テロ」を肯定する。

ボクはテロリストだからだ。

数十万人の名もなき者たちを虐殺したサイコ野郎・織田信長(タイプ8)を

刺し違えてやりたい。笑

 

笑い事ではないが、その時、

ボク(タイプ1)はまさに葛藤(=戦争)の中にいる。

ボクの中に「戦争」はあるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どこかの遠い国で、大きな「戦争(葛藤)」が起こっている。

 

 

 

 

 

どこか私の周りで、小さな「戦争(葛藤)」が起こっている。

 

 

 

 

 

どこかの遠い国で爆弾が落とされ、

私の周りではコインロッカーベイビーズ。

 

 

 

 

 

そのトラウマを、

 

 

過去から継ぎ、

 

 

傷つき、

 

 

そしてコロし合う、、

 

 

 

 

 

それは、豊潤さだろうか、

はたまた、ニヒリズム(諦め)の正当化だろうか。

 

 

 

 

 

我々は、傷つき、傷つけ返す。

我々が傷つく時、その何が傷つくのか。

 

 

 

「イメージ」だ。

 

 

 

自分が作り上げた自分というイメージが傷つくのだ、

自分が作り上げた相手というイメージが傷つくのだ。

 

 

 

 

「まさかそんな人とは思わなかった!!!」

 

 

 

 

バカを言っちゃいけない。

その人は徹頭徹尾その人である。笑

 

自己のイメージが傷つけられ、相手のイメージが傷つくのだ。

イメージ VS イメージ.

世界はおかげで大混乱である。

確かにそれは豊潤さと言えるのかもしれない。

だがしかし、、、

 

 

 

 

 

 

ここでクリシュナムルティが我々に問うのだ。

 

「人間にイメージしないことは可能か?」と。

 

 

 

 

 

クリシュナムルティは問い続ける。

有り難う。

 

人間が迷走から瞑想に向かうのは、この問いに向かっているのだとボクは思う。

 

瞑想は決してイメージすることではない、

イメージを終わらす行為だ

 

 

 

 

 

 

 

ジョン・レノンは「イマジン」と歌うべきではなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

備考 ****************************

 

ここで、では『エニアグラム』というのは、

「イメージ」の最たるものじゃないか!というご指摘があると思う。

全くその通りである。

本テーマを理解していただいてありがたい。笑

 

この文章は、本ブログにおいては、

究極的に「脱・エニアグラム」論と名付けられるかもしれない。

ボクが神秘と哲学の両輪で行こうとするのは、

こういった哲学的「問い」がなければ、何かのバランスを欠いた

エニアグラム教の信者(そんなものはないが)または扇動者となってしまうだろう。

 

エニアグラムは<エニアグラム>を捨てるためにあると思ってもらいたい。

 

 

>クリシュナムルティ

 

 インドのグルである。

 ちなみにクリシュナムルティ自身は「グル(導師)」を拒否している。

 自身をKと呼び、相対化し、Kを重要視するなと言っている。

 Kの言葉を鵜呑みにするなと、Kは問題を投げかけているだけであると、

 自分で考えろ!と。。

 彼はグルというイメージを拒否しているのだ。

 

 彼は「組織化」についても疑問を呈している。

 彼については、ぜひこれを読んでみて欲しい。

 

 クリシュナムルティの解散宣言。

 

 

>一般に、人間は「現実」に触れることが出来ない。

 

 ここで「一般に」と言ったのは、ボクは<触れ得る>という立場だからだ。

 ボクはこの体験を、つまり「現実(リアル)」に触れる体験を

 「神秘体験」としている。

 良い「神秘体験」は人間の肯定的部分を支え、

 悪い「神秘体験」はトラウマとなる、とボクは考えている。

 芸術という行為は、この悪い「神秘体験」を良い「神秘体験」へ

 変換する試みだとボクは考えている。だから時に命がけだ。

 だからジョンレノンが好きだ。笑

 芸術とは治療かもしれない。

 

 

>「自分」と「現実」との間には「肉体」が挟まっているからだ。

 この肉体の中で最たるものが「脳」である。

 

 エニアグラムではこの「肉体」を「思考(精神)・感情感覚(本能)」の

 3つに分けている。

 体の部位で言えば「(臓)・」である。

 ここで話題の中心となるのは「脳」つまり「思考」であるが、

 実はその限りではない。「脳」は細部に宿る。

 エニアグラムでは「思考・感情・感覚」を3つの脳と考えてよい。

 ここでは煩雑になるのを防ぐためこの三角関係については省略させてもらった。

 

 

>そちらの立場に立つとき

 

 この立場を「実存主義」と呼んでいるのだとボクは考えている。

 この文章はだから「脱・実存主義」と言えるのかもしれない。

 「実存主義」がテロリズムを超えることは不可能だろう。

 「自殺」はテロリズムの一形態である。

 ボクは「実存主義」を否定することはできない。

 だがしかし、、、