クリシュナムルティ(1986没)というインドの聖者がいた。
彼は、ある巨大オカルト教団のメシア(この教団は「世界教師」と呼んでいる)として
14歳の時に見出され、霊的?にも英才教育を受けたようだ。
彼の内的な苦悩は相当なものだったらしい。
(27歳の時、彼は決定的な神秘体験をしたという)
彼を一目で見出したのは、このオカルト教団の重要な指導者の一人で、
かなりの霊?能力をもっていたと言われるらしいが、
結論から言うとそれは当たっていた、と言えるのかもしれない。
皮肉にも。
クリシュナムルティは自分のことを「否定の炎」というほどの懐疑者だった。
(懐疑「主義者」ではない。懐疑主義者より徹底している)
そして懐疑、懐疑の果てにあったのは・・・絶対的自由への道。
彼にはこのオカルト教団から「星の教団」という組織を与えられた。
そして彼は34歳の時、この数万人の信者をもつ「星の教団」に、
そのとまどう信者達に向けて解散を告げる。
それ以後、彼は生涯まさに<独り>だった。けれど孤独とは無縁だった。
以下、その解散宣言。
時は世界恐慌が起こった1929年、
ドイツでは、ヒトラーが勢力を伸ばしつつあった頃です。
この時代に語られたものであることも興味深い。
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今朝、星の教団の解散についてお話ししたいと思う。
多くの人は喜び、他の人々は少々悲しまれるであろう。
が、これは喜ぶとか悲しむとかの問題ではない。
なぜならば、これからご説明するように、避けがたいからである。
悪魔と彼の友達の話を覚えておられるだろうか。
二人が通りを歩いていると、前方で一人の男が体を前にかがめて
地面から何かを拾い、それをじっと見つめポケットにいれた。
友達は悪魔に言った。
「彼は何を拾い上げたんだろう」
「彼は<真理>を拾ったのだ」と悪魔は言った。
「それは君にとって非常に厄介なことになったね」と彼の友達は言った。
「いや、少しも」と悪魔は応えた。
「私は彼がそれを組織化するのを助けるつもりだ」
私は明言する。
真理は道なき領域であり、諸君はいかなる道、いかなる宗教、
いかなる宗派によってもそれに至ることはできないと。
それが私の見解であり、私はそれを絶対的かつ無条件に支持する。
真理は無制限であり無条件のものであり、
それゆえいかなる道によろうと組織化されることはできない。
また、ある特定の道に沿って人々を導いたり強制したりするための
いかなる組織も作られるべきではない。
もし諸君がそのことを理解すれば、
信念を組織化することがいかに不可能かがおわかりになるであろう。
信念は純粋に個人的なことがらであって、
それを組織化することは出来ないし、またそうすべきではないのだ。
もしそうすれば、それは死物となり、
硬化して他人に押し付けられるべき信条、宗派、宗教になる。
これこそは世界中のあらゆる人々がしようとしていることである。
真理は狭められ、弱い人々、
ごく一時的に不満をくゆらす人々のためのなぐさみものにされてしまう。
真理を引きずり降ろすことはできない。
むしろ、それに上るべく各人が努力しなければならない。
山頂を谷へ引きずり降ろすことはできない。
もし山頂に至りたければ、峡谷を通過し、危険な断崖を恐れず、急坂を登らなければならない。
真理に向かって諸君が登らなければならないのであって、
諸君の方へそれを「引き下げ」たり、諸君のためにそれを組織化することはできないのである。
観念への関心は主に組織によって維持されるが、
しかし組織は単に外側から関心を喚起するだけである。
真理それ自体への愛から生まれたのものではなく、
組織によって喚起された関心には何の価値もない。
組織は、そのメンバーたちが体よく収まることができる枠組みとなる。
かれらはもはや真理、山頂をめざさず、
むしろ自分の適所をみずから選ぶかあるいは組織に選んでもらい、
組織がそれによって真理にいたるだろうとみなす。
以上が、私の観点からの、星の教団が解散されるべき第一の理由である。
これにもかかわらず、諸君はたぶん他の教団を作りあげ、
他の組織に属して真理を探し求めるであろう。
私は霊的な類のいかなる組織にも属したくない。
どうかこれを理解して頂きたい。
例えば私はロンドンに私を連れていってくれる組織は利用するだろう。
これはまったく別種の組織であり、郵便や電信のように単に機械的なものである。
旅行するのに自動車や汽船を使うであろうが、
これらは霊性とはまったく無関係の、単に物理的なメカニズムである。
再び私は言明する。いかなる組織も人を霊性に導くことはできないと。
もし組織がこの目的のために作られれば、それは松葉杖となり、個人を弱くし、
束縛するものとなり、彼を不具にし、あの絶対的で無条件な真理を
みずから発見することに存する彼の独自性を伸ばし確立するのを妨げるにちがいない。
これが私がたまたま長になった星の教団を解散することを決めたもう一つの理由である。
この決心は誰に説得されたものでもない。
これはなんら大それた行為ではない。なぜなら私は追従者を欲しないからである。
私が言いたいのはこういうことである。
諸君が誰かに従うやいなや、諸君は真理に従うことをやめる。
私は、私が言うことに諸君が注意を払うかどうかには関心がない。
私は世界である一つのことをしたいと思う。
そしてそれに一意専心するつもりである。
私は、人間を自由にするという、最も重要なただひとつのことに関心がある。
私の願いは彼をすべての獄舎から解放し、すべての恐怖から自由にさせることであり、
新しい宗教、新しい宗派を創立することでも、
新しい理論や新しい哲学を確立することでもない。
こう言うと諸君は当然私に尋ねるだろう。
ではなぜあなたは、世界中をまわって話し続けるのかと。
どういうわけでそうするかをお話しよう。
それは信奉者が欲しいからでも、
特別な弟子達の特別なグループが欲しいからでもない。
それにしても人々は、自分が他の人々とは違うということを
—その区別がいかに滑稽で、愚劣で、取るに足りなかろうと—
なんと好むことか! 私はそういった愚かしさを助長したくない。
地上でもあるいは霊性の領域でも、私は弟子をもったりはしない。
金銭の誘惑に負けたからでも、あるいは安楽な生活が送りたいからでもない。
もし安楽な生活が送りたいのなら、私はこのキャンプにやって来たり、
じめじめした土地で暮らしたりはしないであろう!
私が率直に申し上げているのは、これを最後に決着をつけたいからである。
幼稚な討論を毎年毎年繰り返したくはないのだ。
———
もし真に耳を傾ける人、本当に生きる人、
その顔を永遠へと向けた人が五人だけでもいれば、それで十分である。
理解しない人、偏見にどっぷり漬かった人、新しいものを望まず、
むしろ新しいものを自分自身の不毛で淀んだ自己に合うよう翻訳してしまう人が
数千人いたところで、なんになるというのだろう?
言い方が激しいからといって、どうか私を誤解しないようにしていただきたい。
慈悲心が欠けているからではないからである。
もし諸君が手術のために外科医にのところに行けば、
たとえ痛みを伴おうと諸君に手術を施すのが彼の親切というものではないだろうか?
同様にして、もし私が率直な言い方をしても、
それは真の愛情の欠如のゆえではなく—むしろその逆なのである。
すでに申し上げたように、私はただ一つの目的を持っている。
人間を自由にし、彼を自由へと促し、彼が一切の制約を脱するのを助けることである。
なぜなら、それのみが彼に永遠の幸福を与え、無条件の自己実現を可能にするからである。
私は自由であり、条件づけられてはおらず、
一個の全体であり「部分ではなく、相対的ではなく、永遠の全体としての真理である」
がゆえに、私を理解しようとしている人々が自由であることを望む。
私に従い、宗教、宗派になるであろう獄舎を私から作り出すのではなく。
むしろ彼らはすべての恐怖
「宗教の恐怖、救い、霊性、愛にまつわる恐怖、死の恐怖、生そのものへの恐怖」
から自由になるべきなのだ。
絵を描くことが喜びであり、それが彼の自己表現であり、栄光であり、
幸福であるがゆえに画家が絵を描くように、私はそう願うのであって、
人から何かを期待しているからではない。
(まだまだ続くのだが、とりあえずここまで)
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友人の数が増えると気を遣うべき人をこちらが妄想してしまいますが(苦笑)
誤解を恐れずに抜粋しました。どうかその本質を観て欲しい。
まず第一に、彼は自分の教団員に向かって話しているということ。
世界を見渡せば、教団の長が(絶頂期とも言えるその時に)
その教団を解散するということが如何に難しいか分かる。
彼の自我との闘い、そして徹底した自由へ意志。
そこには「自由からの逃走」などという現代思想的(という言葉自体が滑稽だ)、
思想的思考的呑気さは一切ない。
第二に、宗教的集団に属していない一般の人々へ。
彼の本物の懐疑は、自分の「内なる組織」に向けられていたことを観ることが出来る。
本当に自由になるべきはこの「内なる組織」からである。
彼は<真理>を愛する。だからこそ彼はこの教団を解散できた。
それは一見、教団員を愛することではないように見える。
だが真実は全く逆だ。彼は教団員どころか「存在」を愛する。
そして、彼もこの中で言っているが、
宗教的(な信条、心情を持った)組織とそうでない組織を分けている。
このことは重要なのかもしれない。
だが、私にはここにきてさらに事態が深刻に思える。
果たして、「そうでない組織」など存在するだろうか?
私はこの「組織」が、想像以上に巨大なものではないかと疑っている。
私はそれこそを(ハイデガーの言葉を借りて)「惑星帝国主義」と呼んでいる。
「科学技術主義」はその重要な一部である。
ちなみに、彼クリシュナムルティは自分のことを「K」と呼び相対化する。
私は「グル」ではないと。
「Kという人物は全く重要でない、彼を鵜呑みにするな、自分自身で追求しろ」
と常に喚起しながら彼は問題提起をする。
ボクが彼のコトバに魂を揺さぶられるのは確かだ。
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彼クリシュナムルティは普通に観察すれば、タイプ5のように思える。
しかし、語るときの表情をみるとタイプ2にも見える。
(たれ目だからかもしれない。以前タイプ5の友人が指摘してくれたことだが、
タイプ2にはたれ目が多い。実際によく見るとたれ目ではなくても、
マンガ化・記号化されればたれ目で描かれて不自然でない場合が多い。
たれ目が似合うということかもしれない。
これは身体的特徴とくに表情とエニアグラムとの相関関係だと思う)
どちらにしろ凄い。
その情熱と静寂が同時にありえることをその存在が教えてくれる。
彼が自分のことをグルではないと再三にわたって述べている。
このことは非常に重要だ。
私はその本質を理解しながら、あえて「グルのコトバ」とした。