(> は友人であるタイプ4の質問です)
>「分かってほしい」っていうことがいかに傲慢なことなのか、
分かってはいるんだけど。
何でやめられないんだろうと、喋りすぎたりすると後悔する
確かに喋りすぎは良くないよね。
ボクの場合は興奮して喋りすぎる(本能的だ!)。苦笑
>ひとつになれないことをちゃんと諦めるにはどうしたらいいのだろう?
>人は愛なんかで繋がれるのだろうか?
「ひとつになれないこと」と「愛で繋がれない」ことは別のことじゃないかな。
いや、同じことなのか。
君の言う「ひとつになれない」とはどういうことかな?
ボクはこう考えてるよ。
モノは一つになれない。だから「生まれた」んじゃないかな。
一つだったら<無>じゃないかな?
意味分かるかな?苦笑
あるタイプ5が
「<有>は<無>の分割だ」と言った。
さすがタイプ5で、言葉としては意味をなさないのに、
(だって<無>は分割できないから<無>なんだから。笑)
ボクにはその指し示す意味がなぜか分かる。
まあ言葉の限界はスルーするとして、、
(言葉が言葉の限界をスルーする。笑
このスルー出来る所がコトバの本当の可能性だとボクはかんがえている)
僕らがこの「分割(欠けている存在)」だとすれば、
互いに戦争もするだろうし、「ひとつになりたい」と思いもするだろう。
世界中がその争いの中だ。
SEXはその願望の一つの表れかもしれない。
いや、あらゆる願望、希望、欲望、そして絶望が、、、
「ひとつになりたい」という思いと関係するのかもしれない。
ボクは「ひとつになれないことをちゃんと諦める」ために
このように哲学的?になるのかもしれない。
ボクにとって<真実>は受け入れる以外にないので。
ただ、仮説としては、永遠に仮説だけれども、
死ねば、<無>に「還る」ので「ひとつになれる」のではないだろうか。
自殺はその願望の一つの表れかもしれない。
だから、
どうせいずれ「ひとつになる(死ぬ)」んだから安心しなさい、
ということだろうか。笑
これは絶望ともとれるし希望ともとれる。
ボクの友人は死ぬことを「還る」と表現する。いいね。
あらゆる真理は、絶望とも希望ともとれるんじゃないかな。
「生まれる」という分割(苦しみ)は、
「誕生」という祝福ともとれる。
つまりこれは<言葉>についての説明だな。
輪廻(生まれ変わり)ってのはその一つの願望の表れかもしれない。
さて、
>人は愛なんかで繋がれるのだろうか
なんだけどね、
そもそも「愛」も言葉(イメージ)に過ぎない。「繋がる」も。
もちろん君は詩人だから、
この言葉にすると陳腐になってしまう事柄を承知で問うてるんだと思うけど。
ボクも陳腐を覚悟でしゃべろう。しゃべりすぎも覚悟で。笑
>「気持ち」というのは、雲の形と一緒で次の瞬間、
もしくはいつしかは変わってしまうものだと知ってる。
愛は変わらないものなの?
「愛」は「気持ち」ではないの?
難しい質問だな。
「愛」という言葉には色んな使い道がある。
いずれ、「愛」に関する、
ある感情型のグルの言葉をここで紹介したいと思っている。
ここでは、
「愛する」という<意志>の話をしたい。
「愛されたい」ではなくてね。
そうするとね、
乱暴に言えば「相手」は関係ないんだな。
「愛する」は自分の意志だ。自分の勝ってだ。
相手の首根っこを掴み「私を愛せ」と言いたいのは分かる。
だがしかし、やはり「相手」は自由である。
むしろ「相手」の自由を保障することこそ
「愛する」ということではないのか、とも思う。
それは、
相手がどのような状態であれ「愛する(意志)」ということだ。
ボクはいつも自分にこう問うよ。
「お前は○○を愛すると決めたんじゃないのか?」ってね。
「愛する」というのは、解放するってことじゃないかい?
人生は時に過酷だ。常に、か。苦笑
ここで、ボクのいつもの問いが発生する。
「意志(=愛するということ)は可能か?」と。
これは君の問い「人は愛なんかで繋がれるのだろうか?」を
翻訳したつもりでもある。
君の問いから「要求」を省いたものだ。
さて、ここまでくるとボクには何とも言えない。
ボクのようなすっとこどっこいに分かるはずもない。
ただ、
「生きる」というのは「意志」じゃないだろうか。
ボクは生まれてはきたが「生きて」ない。
46にして「生きて」ないのだ。
なんだか、これはまずい!ということだけは分かるのだが。
ゾンビ(living dead)と人間の決定的な差は、
「意志」に違いない。
ゾンビの目には「光(意志)」がない。
ただ、我々は、グルジェフに言わせればゾンビに近い。
「我々は眠っている」
愛する=意志する=生きる、だとすれば、
ボクの問いはさらにこうなる。
人間(ボク)は「生きる」ことは可能か? と
ボクの人生はこの問いの実験の場である気はするのだが、
こんなすっとこどっこいにそんな大それたことが可能なのか、
と思うと諦めたくなる気持ちもある。苦笑
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>ひとつになれないことをちゃんと諦める
について、もう一つの考察がある。
それは、我々はすでに「ひとつ」ではないのか、ということ。
「存在」という地平で、感じ考えてみると。
我々「存在者」は「存在」という地平ではひとつだ。
この「ひとつ」を味わう作業が<瞑想(禅)>なんだと思う。
ボクたちは、言葉(というイメージ)にだまされている。
もちろん自分をだます(守る)ために言葉は発案されたに違いない。
「ひとつ」も言葉なら
「ひとつになれない」も言葉だし、
「ひとつになれないことを諦める」も言葉だ。
ボクらは、この<言葉というイメージ>から自由になる必要がある。
生まれた時は自由だったのにね。