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本ブログについて
◉性格タイプ論としてのエニアグラム
現在、エニアグラムは性格類型(タイプ)論として普及している。
ここでもボクは、エニアグラムをいわゆる「9つの性格タイプ」を基本として話を進めているが、エニアグラムが、もともとグルジェフによって世界にオープンにされたものである以上、なぜグルジェフがこの図形を使ったのかという視点がなければ、我々が一体、どこへ向かってエニアグラムを使用しているのか分からなくなってしまうと思う。まず強調しておきたいのはエニアグラムが図形であるということだ。
グルジェフは、エニアグラムをいわゆる性格類型論として扱ってはいない。しかし、グルジェフ・ワークと呼ばれるその徹底した自己観察の仕方には、エソテリシズム(秘術)としてのエニアグラムが、我々の「有機体としての構造と機能の法則」を象徴する図形として、極めて重要かつその中核を為すものであることは明らかである。
(例えば、グルジェフはその著書『ベルゼバブの孫への話』の中で、地球人類を「三脳生物」と表記している。これはエニアグラムという図形の中にある3・6・9という正三角形で表現される。簡単に言えば、3=心で考える、6=頭で考える、9=腹で考える、と表現できるかもしれない)
現在普及している「性格類型論としてのエニアグラム」も、多方面の研究がなされるのにつれ、グルジェフ・ワークの質をさらに保証するものとなったという印象はある。
しかし、エニアグラムを性格類型論としてのみ取り扱うのは、グルジェフの方向性においても、バランスを欠いている印象を拭えない。そこで、
◉神秘と哲学の両輪
エニアグラムはその出自から見てもどちらかと言えば神秘的な側面が大きく見えるかもしれない。ボクは物理的な法則だと思っているが。
一方で、哲学的であることは非常に重要だとボクは考えている。
それは学問としての「哲学」ではない。「哲学的である」ということである。
ボクの言う「哲学」とは<問い>である。
例えば、「心」はない。「精神」なんてないし、「意識」もない。ましてや「エニアグラム」なんてない。もっと言えば「人間」なんてないし「猫」なんてない。すべて「コトバ」というカテゴライズ(=象徴)である。エニアグラムで言えば、その象徴度が最も極まったものがタイプ1とかいった「数字」だろう。
一方では「心」があるという前提で話をしながら、「どこからが『心』で どこからが『心』でないのか?」という「問い」がなければ、何かのバランスを欠いている単なるエニアグラム教の信者となってしまうだろう(もちろんそんな宗教はないのだけれども)。これらの視点は哲学的である。
◉エニアグラム研究における基本路線
<自分>とは? <肉体>とは?
エニアグラムはそれ自体がこの「問い」になっている。
そしてボクは<自我=肉体>だと考えている。
本ブログの右のサイドバーに挙げたグルジェフの言葉にある通り、我々は<肉体>の内にあると言ってよい。それは<肉体(心・頭・腹)>に支配されていると言ってもいいだろう。
<自分>と<肉体>を分けるためには、否、<自分>を「創造」するためには、その<肉体>の有機体としての構造や機能を「観察」することが必須の条件となるだろう。「観察」することが出来て初めてその外に出ることが可能になるに違いないからだ。
その<肉体>という有機体を象徴する道具として、またその構造と機能をより正確に観察する道具として、エニアグラムほど有効なものをボクは他に知らない。
エニアグラムが<肉体>を象徴するものであるならば、それはきっと<宇宙>(哲学的に言えば<存在者>)を象徴するものに違いない。
このエニアグラムを使うことによって、つまり「エニアグラム」から一歩外に出ることによって、<自分>を「創造」していくことが出来ないだろうか、というのが本ブログの基本路線である。