存在驚愕ータウマゼイン(『存在』 論4) | エニアグラムと哲学のTakkme

エニアグラムと哲学のTakkme

◉9つの性格タイプ論としてのエニアグラム
◉神秘と哲学の両輪

 

 

「なぜならその(存在の)<驚愕>の感情こそが、 

 本当に哲学者のパトスなのだから」

            (ギリシャ哲学者/プラトン) 

 

 

「けだし驚愕によってこそ、人間は、今日もそうであるが、

 あの最初のばあいにも、あのように哲学しはじめたのである」 

            (ギリシャ哲学者/アリストテレス) 

 

 

 

 

 

タウマゼイン

θαυμάζειν

 

 

 

 

 

ギリシャ語で「驚愕」を意味する。

哲学が生まれた最初を意味する言葉だ。

 

 

これは、

存在驚愕のことである。

(まず、存在と存在者の違いを把握してもらいたい。

 『存在』論1で出来るだけ分かりやすく説明したつもりなので

 ぜひ参考にしていただければと思う。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕らはこの「世界」という劇場になぜだか生まれ落ちた。 

そして僕らはこの「世界」に没頭する。 

それは、懸命に生きれば生きるほど。。 

この劇場では演劇的(=社会的)に振る舞わなくてはならぬ。 

 

(この役者の仕方、つまり配役は肉体の種類によって大体決まっており、 

 ボクはそれを9つに分けている。

 それがこのブログでメインに扱っているエニアグラムである。

 ◉エニアグラム解説パート1 <基本編>をご参照いただきたい)

 

 

 

 

 

あの洋服も着なけりゃいけない。 

あの化粧もしなけりゃいけない。 

あの髪型も気になる・・・ 

あの音楽も聴かなきゃいけない。 

あの映画も観なきゃいけない。

あの本も読まなきゃいけない。 

学校も行かなきゃいけない。 

仕事もしなくちゃ・・・ 

 

おまけに空気まで読まなくてはならない。 

 

親のことも気になる、 

友達のことも気になる、 

恋人もつくりたい、 

 

歳もとっちゃう。 

将来どうなって行くのか? 

<私>は愛されるのか? 

愛される資格はあるか? 

オレは間違っていないか? 

(尾崎豊のようになってきたが。古い?笑) 

 

 

 

大変だ。 

問題が山積みである。 

 

 

 

こうして「世界<内>」で、役者として熱演し没頭しているうちに、 

役者が自分だと勘違いしてしまう。 

忘れてしまうのだ、 

 

 

 

 

存在を。 

 

存在しているという神秘(リアル)を。 

 

 

 

 

存在者の中で、存在者(=役者)として没頭しているうちに、

存在を忘れてしまうのだ。

この、存在者が存在を目隠ししてしまう事態を

ある哲学者が存在忘却と名付けている。

 

 

 

覚醒とは、

この「世界<内>」を覚めて、醒めて、観るということ。 

つまりそれは<外>に出るということ。 

 

ここは言語の限界だけれど、 

実際は、<内>も<外>もなくなる地点を味会うということ。 

 

 

 

 

 

 

 

全一(トータル)。 

 

 

 

 

 

 

 

 

沈黙。。。

 

 

 

 

 

 

 

さて、 

こんなことが、なぜ大事なのか? 

不思議に思う人もいるかもしれない。 

 

 

 

 

 

なぜか? 

 

 

 

 

 

 

「存在」は不滅 だからだ。 

 

 

 

 

 

 

この世に不滅なモノなどない、みな朽ちて滅びるだけだ、 

というニヒリストがまず、この真実に<驚愕>しなければならない。 

相対主義者が、この世は夢かもしれない、とナナメからものを言ってみても、 

「夢」は存在者だ。その夢は「在る」。 

 

 

 

 

「存在者」は朽ち果てようとも、 

「存在」は存在する。 

「存在」は無くならない。 

 

 

「無」は無い。 

「在る」のだ !!!

 

 

これは驚くべきことである。 

 

 


 

 

「在るということだけがあると、語りかつ考えなければならない。 

 なぜなら在ることがあるのは可能だが、 在らぬことがあることは不可能だからだ」

                    (ギリシャ哲学者/パルメニデス) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに、驚愕することには、 

ボクはあなたと同じ時空に<在る>。 

 

 

膨張する? 

 

この無限の? 

 

大宇宙の中に、 

 

数千億とある 

 

銀河。 

 

の中に、 

 

数千億とある恒星。 

 

その辺境にある一個の恒星、太陽。 

 

の周りを回っている一個の惑星、地球。 

 

の中の日本。 

 

の中の・・・・ 

 

 

 

 

 

広大なネットの海、

 

の中の・・・・ 

 

 

 

 

 

 

ここ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

この日記を 

 

 

 

 

 

 

 

あなたは読んでいる。 

 

 

 

 

 

 

 

奇跡だ。 

奇跡が起きている! 

 

 

 

 

 

 

なぜこの<奇跡>を僕らはすぐに忘れるのか? 

 

 

 

 

 

恥ずかしいからか?笑 

確しかにこの真実、あらためて口にするのがためらわれるくらい、 

当たり前すぎて恥ずかしい。 

ただ、恥ずかしいから忘れとこうというのも妙な話だ。 

そのうちに本当に忘れ去った。

 

 

 

 

 

 

<存在>忘却。 

 

 

 

 

 

 

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」(岡崎京子) 

 

 

 

 

 

 

 

それはこの「世界<内>」に没頭しているから。 。

(これを自己同一化と言います) 

 

 

 

誤解を避けるために言うが、 

この「世界<内>」が重要でない、と言っている訳では全くない。 

重要極まりない。 

 

 

ただ、人間は、 

<内>で揉まれているうちに、 

肉体(思考・感情・本能)が傷つく。 

エニアグラムはこの傷の分類だとも言える。

 

 

 

なぜ人間だけが傷つくのか? 

 

否、動物も植物も森羅万象、存在者はみんな傷つくのに、 

 

なぜ人間だけが傷つくことに気づくのか? 

 

なぜ傷ついたことに傷つくのか? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは<外>に出ることが出来るから。 

 

 

 

 

 

 

 

 

その<外>という視点、 

(ボクはこれを「神の視点」と呼びます。) 

この視点を示すことが、 

 

 

「哲学」の唯一の仕事。 

 

 

ボクはこの「世界<内>」を洗濯機に例える。 

「恋愛」もよく洗濯機に例える。笑 

 

洗濯機でぐるぐるぐるぐると回されているうち、 

何がなんだかわけが分からなくなる。 

強い肉体のものに絡まれ、ボロボロになるものもある。 

絡まれていれば安心だと思う者まである。 

洗濯機の中で強くいれる者は(根元的にそんな人がいるだろうか?)、 

これが世界だと思う。洗濯機の中<内>が。 

弱い者はそれに付いて行きさえすれば安心と思う。 

 

 

けれど、傷ついている。 

なぜ傷ついたことに傷つくのか? 

 

 

そこで、 

「洗濯機(世界)」を発見するのだ! 

<外>を発見するのだ! 

 

ただ、 

ここまでは「逃げ」かもしれない。 

思考が感情が本能が、洗濯機から逃げようとして、 

「洗濯機」を夢想したのかもしれない。 

 

 

 

<外>に出るには、洗濯機が回っているままではだめだ。 

<内>から洗濯機を止めなければならない。 

 

 

 

 

 

 

その方法が<瞑想・禅>なのだ。 

 

 

 

 

 

 

この体験で「洗濯機」は消える。 

 

そして、 

 

洗濯機には電源がなかった!!! 笑! 

 

 

 

 

電源がないのになぜ「在る(動く)」のか? 

<内>と<外>が融合するとき、 

「洗濯機(世界)」は消え、 

 

 

 

 

 

 

ボクが電源そのものになる。 

 

 

 

 

 

 

世界という<息吹>そのものになる。 

 

 

 

 

 

 

 

「哲学」の仕事は<外>の存在を示すこと。 

それは「存在」そのものを示すことと同義。 

それは「真実」を示すことと同義。 

 

 

 

 

 

 

それが、 

「哲学」の唯一の仕事。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「在ることそのことは、かつて在ったなんていうことはないし、 

 いつか在るだろうなんてこともない。 

 いまここに、すべて一挙に、一つになってつながりあうものとして、 

 あるからである」(パルメニデス) 

 

 

 

 

 


 

「なぜなにもないのではなく、なにかが存在するのか」(ライプニッツ) 

 

 

 

 

 

 

「ただ一度。 

 二度存在することはない。 

 しかしこの一度存在したということ。 

 たとえただ一度だけでも、この地上に存在したということ。 

 これは、取り消すことができない」(リルケ) 

 

 

 

 

 

 

「神秘的なのは、世界が「いかに」あるかではなく、 

 世界が「あるということ」である」(ウィトゲンシュタイン) 

 

 

 

 

 

 

「この体験を記述する最善の方法と私が信ずるのは、 

 私がこの経験をするとき私は世界の存在に驚く、ということである。 

 そのばあい私は、 

 <何かが存在するとはなんと不思議なことだろう>とか、 

 <世界が存在することとはなんと不思議なことだろう>といった 

 言い方をしたくなる」(ウィトゲンシュタイン) 

 

 

 

 

 

「不安の無の明るい夜のなかで、 

 存在者として存在者の根元的な開示がはじめて生起する」(ハイデッガー) 

 

 

 

 

 

「あらゆる存在者のうちひとり人間だけが、 

 存在の声によって呼びかけられ、 

 <存在者が存在する>という驚異の中の驚異を経験するのである」 

                        (ハイデッガー) 

 

 

 

 

 

 

「私はハイデッガーが存在と不安について考えていることを、 

 十分に考えることができる。 

 人間には、言語の限界へ向かって突進しようとする衝動がある。 

 たとえば、何かが存在するという驚きを考えてみるがいい。  

 この驚きは、問いの形で表現することはできないし、 

 また答えなど存在しない。 

 われわれがたとえ何かを言ったとしても、 

 それはすべてアプリオリに無意味でしかない。 

 それにもかかわらず、われわれは言語の限界に向かって突進するのだ」 

                     (ウィトゲンシュタイン) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それにもかかわらず、

われわれは言語の限界に向かって突進するのだ! 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、 

 

 

 

 

 

 

 

いざ、 

 

 

 

 

 

 

 

 

洗濯機の中へ。 

たくみ、がんばれよ。 

Takk...... 

 

 

 

 

 

 

 

*******************

参照◉『現代思想としてのギリシャ哲学』古東哲明

 

ここからは以前のSNSでの会話です。

 

>さかえもん

どうしても三島のゆっきーに関連付けてしまうんですが、

以前の日記で輪廻があながち間違ってない、っての読ませて貰ったんですが、

三島の遺作が輪廻転生譚なんですよね。

これが何を言いたいのかさっぱりなんです(苦笑)

三島は存在者は死ぬが存在はなくならない?ということを言いたかったのかな、

とか今ふと思いました。

最後、主人公が仏教の「空」らしき場所に突入するんですが、

縁起即空だったはず(間違ってるかもです)だから、

これ共存在と似ている?似ていない?(笑)

よく頭整理出来てないんですが、考えさせられました!

ありがとうございます!!

 

>Takkme 

なるほど、なるほど。 

けどよく三島ゆっきーの本なんか読むねえ~(他人事・笑) 

 

 >>三島は存在者は死ぬが存在はなくならない?

   ということを言いたかったのかな 

 

みんな大抵そうだと思うよ。 

詩を書く人、文書く人、絵を描く人、踊る人・・・ 

みんな大抵それが言いたいんじゃないかな。 

<永遠>ね。 

それがたとえ反・<永遠>でも。ね。 

 

ただそれがそうだ、という自覚がない。しつこいが。笑 

その自覚を促すのが哲学の唯一の仕事。しつこいが。笑 

 

それなのにそうしている哲学者が、 

そうしている自覚がない場合がある。 

それは「哲学者」と言えるのか?笑 

 

ではゆっきー論文がんばってくだせえ。(他人事・笑)

 

 

>Dionaeko

あらゆるものが存在していること、

自分が存在していることの不思議を見て、

輪廻に思いを馳せると恐怖を感じると 

以前たくみさんの日記にコメントしました。 

この世界の本質に触れると、

<役者の仕方>のコアが発動するように思います。

それが私の場合は「恐怖」なわけで。 

あらゆるコアが、本質を見続けることを妨げます。 

 

<役者の仕方>を見ていると、

人間(私)はいかにも「世界」に没頭するように出来ていて、

本質から目を逸らすように作られているように思います。 

日記を読んで、世界の本質とは、

「存在」するということの奇妙さに集約されるのだと思いました。 

多分、あらゆる芸術は、衛星のように、

本質の周りをぐるぐる回っているのでしょう。

で、芸術を介在して、本質を感じた人はあらゆるコアを発動させると。 

 

独り言のようになってしまってごめんなさい。

 

>Takkme 

全くその通りだ。 

この会話はなかなか他の人には分かりずらいかも。 

 

 >>この世界の本質に触れると、

   <役者の仕方>のコアが発動するように思います。

   それが私の場合は「恐怖」なわけで。 

 

思考中枢(思考がコア)の人にはまさにここがネックになるから、 

コトバ(=思考)がネックになるから、話がややこしい。笑 

どうしても、コトバで表現するから「驚愕」となるが、 

思考中枢には「驚愕」という言葉より、 

より適切なコトバがあるかもしれない。 

「静寂」? それも恐怖だな。笑 

 

やっぱり、それは思考中枢ににとっては 

コトバ(=恐怖)を超える地点であるから、 

この日記(言葉)では限界がある。 

やっぱり雰囲気、この雰囲気を読んでもらうしかない。 

 

思考を捨てて下さい。(簡単に言っちゃいますが) 

思考を捨てて音読してみて下さい。笑 

 

言葉で取り込もうとすると 

言葉=恐怖になってしまう。 

 

かといって「メタファー(物語)」にする訳にはいかないわけです。 

ボクは文学者ではないから。

まさに「文学者ではない」ということが言いたいわけだから。笑 

 

ぐる猫さんのコメントよく覚えていますよ。 

それを意識しながら、思考中枢向けにしてしまうと、 

みんなの理解を妨げる恐れも考えながら、書きました。

 

(ここはエニアグラムを使った話が繰り広げられております)

 

あと、

さかえもん、ぐる猫さん

「輪廻」などに思いを馳せなくてよろしい!笑 

それは百害あって、、

 

とまでは言わなくても、、 

ボクはそういう(輪廻という)考え方が起こっても、 

不思議はないと言っているわけで。 

(前回の存在論3で話したテーマについてです)

 

もっと言うと 

不思議なのは「存在」であって、 

「輪廻」という存在者(概念)ではない、と言っているわけだから。笑

 

 >><役者の仕方>を見ていると、

   人間(私)はいかにも「世界」に没頭するように出来ていて、

   本質から目を逸らすように作られているように思います。 

 

全くその通りだ。 

このことを看破している人はなかなかいない。 

 

 >>日記を読んで、世界の本質とは、

  「存在」するといいうことの奇妙さに集約されるのだと思いました。 

   多分、あらゆる芸術は、衛星のように、

   本質の周りをぐるぐる回っているのでしょう。

   で、芸術を介在して、本質を感じた人はあらゆるコアを発動させると。 

 

全くその通りだ。 

やっぱり音読されている。。笑 

 

>蓮葉

〈本質〉ひとつでこれだけ語れるなんてたくみくんはやっぱ深いね。 

 

私はどうしても必要とするときに〈本質〉という語を使うかもしれないけど、

その語自体については何も考えたことはない。 

 

私にとって語は色んな意味に化けさせるための道具みたいなものかな

 

>Takkme 

そうだね。 

それが<本質>の本質かもね。 

在るようで無い。 

無いようで在る。

 

>れい

いつか別れがくる。 

なぜだか、いつもそれが頭から離れない。 

 

いつか。。 

何年か先かもしれないし、何十年先かもしれない。 

明日かもしれないし、今日かもしれない。 

それどころか、いつも別れの瞬間に立ち会っているような、刹那。 

 

それなのに、この瞬間がいつも豊かな光に(すべてに)満ちている、

と感じるのは、 それは、わたしたちはどの瞬間も、

奇跡に満ちて“存在”しているからなのかな。 

 

この世界って、青い空ごとほんの薄い氷で囲まれた箱庭のよう。 

脆くて儚くて、今にもパリンと音を立てて壊れてしまいそうな。 

でもそれはそのままかけがえのない・・・洗濯機。笑 

 

“存在”は失えない。 

だから「わたし」は「あなた」を失えない。 

 

たくみの日記の行間が好きだな。 

 

>Takkme 

一期一会だね。 

昔の人はホント上手いこと言うね。 

 

れいには何も言うことないよ。笑 

その通りだ。 

 

「行間」にすべてを賭ける! 

 

  黙っていた方がいいのだ 

  もし言葉が 

  言葉を超えたものに 

  自らを捧げぬ位なら 

 

「行間」ってそのためにあるよね。

 

>Dionaeko

私はこの日記が好きです。 

悲しいときや辛いときに、この日記を読みにきます。 

 

先日、食虫植物愛好家の集まりで、ある方と話していたんです。 

長年研究所でバイオをずっとやってきた人で、年配の男性です。 

今年、オーストラリアの自生地に行き、

今までにボルネオや国内などの、

多くの自生地を見ていたらしいのですが 

南半球は初めてだったそうです。 

その土地固有の食虫植物が崖に生えている姿を見て 

 

「こんなに、素晴らしいものをこれ以上見たら 

ボクの体一つでは受け止めきれないと思って怖かった。 

案内してくれた人は、今まで何十年と見学してきたすべてをボクに、

見せてくれたんだ。 

ボクは、本当に面白かったんだよ」 

 

と言って、おいおい泣いていました。 

自己陶酔の涙じゃなくて、本当に純粋な陶酔の涙で、

その場にいたみんなが彼の話を聞いて、涙ぐみました。 

私はそういう時に、割とクールでいるものですが 

そのときばかりは、心の底が熱くなりました。 

彼は、タイプ2だと思っていますが、

タイプ2のこの種の涙を初めてみて 

感動したんです。 

 

なんで私にはわからないんだろう。 

触れることは出来ても、確かな手応えとして、

私の手の中には残りません。 

この世が夢のようにも思えるし、ニヒリズムにも落ち込む。 

私には、わからないことが、何よりも悲しいです。

 

>Takkme 

人の役に立てるってのはこんなに嬉しいことなんだな。 

タイプ2の気持ちが分かる。笑 

 

そうですね。タイプ2が4に向かうということは、 

このことを指しているんですね。 

 

 

ぐる猫さんはボクの言う「0.1%の神秘」に恐怖を感じているんだと思う。 

それが肉体の傷で、その傷に引きずられるために、

肉体を明け渡してしまうことが出来ない。

そんな得体の知れない0.1%に。笑 

 

ぐる猫さん信じて下さい。 

「0.1%の神秘」を。

これは真実です。 

これはもう「信じる」というより、 体感かもしれない。 

真実に恐いもくそもない。 

それはつまり恐怖からの解放かもしれない。 

 

きっとぐる猫さんは体感すると思う。 

そのことをタイプ2のようにしゃべることはなくても(笑) 

その体感(リアル)を味わう時がきっと来ると思います。 

今は信じて下さい。 

実際、この日記を読みに来ている。 

それは「0.1%の神秘」を噛みしめるために違いない。

 

>グリーンパールなぎ 

ぐる猫さんとたくみさんの間におじゃまします。 

 

たとえば、あるにおいや音楽を体で感じるときとか、

ふっと懐かしかったり、過去の回想ができたり、

自分の魂が揺れるようなことがあると思うんですが、 

私はそういうものをまぎれもなく感知できる、

認めることができる人間という生物がもうすでに尊いと思います。 

 

タイプ6は、とか、タイプ4は、このさい関係なく、

私たちはみなその人間であることにまず…洗濯機。 

 

ぐる猫さん、悲しまないで。

 

>Dionaeko 

なぎささん、ありがとう。 

言葉じゃ上手く伝わらないかもだけど、嬉しいです。

 

>Takkme 

 >>たとえば、あるにおいや音楽を体で感じるときとか、

  ふっと懐かしかったり、過去の回想ができたり、

  自分の魂が揺れるようなことがあると思うんですが、 

  私はそういうものをまぎれもなく感知できる、

  認めることができる人間という生物がもうすでに尊い 

 

にぐる猫さん、答えて下さい。正直に。笑  

 

ホントにタイプが関係ないのか。笑 

関係なくなる地点はどこなのか。

 

>Dionaeko 

なんか、問いただされてますね(笑) 

 

私は、よく魂が揺れます。 

あるにおいや音楽を体で感じるときとか、

ふっと懐かしかったり、過去の回想ができて、

陶酔することがあります。 

でも、私は、れいさんや蓮葉さんが書くように、

奇跡に満ちて“存在”しているようには、感じません。 

世界という<息吹>そのものには、ならない。 

もし、本当に感じていたら、ニヒリズムに落ち込んだりしないと思います。 

私は世界と一つにはならない。 

思考で防衛しているから、ならないのかもしれませんけど 

繰り返しになりますが、触れることは出来ても、

確かな手応えとして、私の手の中には残りません。 

あああうううう・・・

 

>グリーンパールなぎ 

なるほど・・・触れることと確かなものとして手でつかんでいる、

ってのとは違うんですね(もちろん)。 

なら、私も、ただ触れていることに喜びを感じてるだけなのかもしれない。 

でも、タイプ4のように、触れたそのことにあまりにも重みを置くことよりも、 

ぐる猫さんのように、手の中に何もないって言えるほうが、

私はかっこいいと思っちゃう。 

どうですか?たくみさん。導いてください。笑 

 

世界とひとつになることなんて感じたことも考えたこともなかった・・・未熟 

 

>Takkme 

どちらもなるほどなるほどです。笑 

 

(追加)

 素晴らしいタイプ6と4の会話だ。

 

 

魂が揺れるとはどういうことだろう。 

その先のことなのかな。 

 

関係なくなる地点はやはり神秘体験なんだな。 

やはり沈黙の地点なんだ。

 

ボクも仏陀じゃあるまいし常に実感してるわけじゃないですよ。 

遠い遠い。笑 

 

ここでは、ここの日記では、あくまでも理でそうなるんじゃないですかと、

確かにそういうことになるんじゃないですか、と言ってるわけです。 

すこし安心するじゃないですか。笑 

 

思考型の人だからといって

そこを必ずしも突き詰めて考えている訳ではないですからね。

けど先人の哲学者が理でこれだけのことを言ってくれている。 

すこし安心するじゃないですか。 ねえ。笑

 

>さかえもん 

久しぶりにこの記事を読みました~!

懐かしい気持ちと自分の日記が貼られている恥ずかしさと、笑、

昔とは違う今の理解と。。。

 

洗濯機の比喩と、それを止めるのが瞑想・禅ってのが巧いな~と!

自分はどんなものでも「止める」ってことができないですもん(>_<)

 

 >>「哲学」の仕事は<外>の存在を示すこと。

   それは「存在」そのものを示すことと同義。

   それは「真実」を示すことと同義。 

 

自分には「存在」って表現がピンと来ない。

理解はできても、他の哲学者たちの言葉のように「存在」を感じないですね。

むしろ、<外>、主体の<外>、世界の<外>、

こっちのほうが理解しやすいですね。

自分という「存在者」にこだわり続けているからなのかもw

昔、「人類と一体感を抱いた」っていっても、

それは「自分という存在者からようやく抜け出せた」からこそ感じた、

って印象なんですよ。だからバタイユの表現に惹かれたのかな。。。

 

昔はちょっと自分をごまかしていたのかもw久しぶりに読んで、

この感覚の相違を認めることができたんでちょっとコメント残してみました~(o^^o)

 

あと、蛇足なんですが、自分に対する「理解」を求めるよりも、

自分と他者が決定的に違うってのを認めたほうが、

自分が安定するんだってこないだ実感して、

今日読書してても思いましたw

具体的には、親と喧嘩して「こういう人間にはなりたくない」って

心底から思って自分が安定したってことですw

 

>Takkme 

お~サンキューさかえもん

 

 >>自分はどんなものでも「止める」ってことができないですもん

 

「感情型」は特に難しい感じは分かるな。

結局どのタイプも難しいけどね。

けど、「神秘体験」は「止める」体験だよね。

その種類がまたタイプによって異なる。前にどこかで話したね。

肉体(タイプ)を通しての体験だから当たり前なんだろうけど。

 

オレは、究極的には「謎」ってのは2つしかないと思ってて、

それは「存在」の謎と「わたし」の謎。

 

この2つの謎は、さらにホントは同じ謎だと思ってるんだけど、

どちらの謎にシンパシー?を感じるか、またはどちらの謎に集約するか、

がまさにその人の性格タイプによると思うんだよ。

 

特にここでは、オレがタイプ1でさかえもんがタイプ4であるという

差が如実に出てる気がする。

オレの方は逆に「<わたし>の比類なさ」の方にピンとこない。

(これは「外向型」か「内向型」かの差でも言えることなのかもしれない。

ここでもタイプ6のような「内向型」では複雑だが。。)

 

中島義道や永井均などのタイプ4の哲学者は、

「存在」の神秘性より「<わたし>の比類なさ」の神秘性に

焦点があたりやすいと感じる。

つまり常に「わたし」という<内>からの表現になる。

いや、むしろその表現にこだわる(傷だから)。

「存在」という表現は、いわばいきなり<外>を言っちゃってる。笑

 

だがここで、オレは感覚型なので

(このこと自体が他のタイプには理解しづらいと思うけど)

他のタイプを感覚で掴むことが出来る。

ちょっとややこしいこと言うけど、

タイプ1がタイプ4に落ちることを(感覚を使って)

利用できる。つまり、味わえる。

 

これは他のタイプにももしかしたら言えることで、

そのコア(つまりタイプ4だとしたら「感情」)を使って、

他のタイプを味わえるのではないか?と推理している。

 

実際、特に中島義道などのタイプ4どっぷりの哲学者より、

イチローの哲学的発言の方がボクには、刺激がある。

 

ということで、(何がということでかわからないけれどw)

オレも出来るだけ、「存在」の謎と「わたし」の謎の接点を

表現出来ればな、と思って書いてるんだ。

「洗濯機」という表現もオレのタイプ4力を使っているのかもしれない。笑