古い日記より「有限」の話(『存在』 論3) | エニアグラムと哲学のTakkme

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2001年3月25日、朝6時。

 

ボクは37度5分の熱をさますべく、 
アルカリ水を買い込み350mlを一気に煽ったあと 
強めの解熱剤を飲み、布団にもぐり込んだ。 

みゅうりん(猫)が枕元に三つ指ついてきちんと座っている。 

以前、喘息の発作のときもぜえぜえと闘っているボクの前に 
やはりきちんと座っていたものだ。 通常このようなことはない。

何かの波動?を感じるのだろうか。 
ボクは目の前の三つ指ついた神の使い(キリスト)の 

胸のあたりから発する何かを眉間のあたりに感じて、目頭が熱くなった。 
みゅうりんは確かにボクを癒しているが、 
みゅうりんに「癒し」ているつもりなどない、と思う。 
やはり動物には「悪意(=良心)」がないのだ。 
だがすぐに、キリストは猫へともどり、布団をあけてくれと言い、 
ボクの腹のあたりに丸くなった。 


何かが、降りた。 


解熱剤のせいだ。 
書き留めなければならぬ。 


 

 

 

 

宇宙の始まりとは「有限」の始まりである。 
「宇宙」とは「有限」と同義だ。 
「無限」とは「有限」の半永久的な反復作用のことを言うのであり、 
「無限」自体が存在するのではない。 
「無」は観念としてのみある。
「禅」のなかに「無」はある。 

つまり例えばこの紙を燃したところで、 
これが宇宙から「無」くなるわけではない。 
別の粒子へとその姿を変えるだけだ。 
すべては「宇宙」という「有限」の器の中で 
事象として表れるのみである。 

これは「在る」ということだ。 

ひるがえって我々の肉体(思考・感情・本能)はどうだろうか? 
これも間違いなく宇宙の表現、有限の産物であって 
「無」くなることはない。 
絵を描くということは、絵の具のカタチを変えることだ、 
と言うのに似ている。 



アートだ。 
「存在」はアートだ。 



かかる意味において、「輪廻」という概念も 
あながち理にかなってい
ないとも言いきれない。 

我々はたとえ「死」んでも 
「わたくし」という絵の具のカタチが変わるだけで 
「宇宙」=「有限」の中では「無」くなることなどありはしないのだ。 




有限は永遠へ。 










 

 

 

またみゅうりんがぼくのあたまの上に座っている。

 

 

 

 

 

 

「在ることそのことは、かつて在ったなんていうことはないし、 
 いつか在るだろうなんてこともない。 いまここに、すべて一挙に、

 一つになってつながりあうものとして、あるからである」(パルメニデス)